テントの外で、砂のざらつく音が聞こえる。
花京院はじっと目を瞑り続けていた。時刻は、恐らく午前零時を回ろうかという頃だろう。明日も朝は早い。早く眠らなくてはならない、という思いが余計に頭を覚醒させてしまう。旅に疲れて軋む体は常に休息を求め、普段であれば横になればすぐに眠りにつけるのだ。今日だって、予想外のスタンド使い──「太陽」の暗示を持つ敵との戦いで疲弊している。
だというのに中々眠れないのは、間違いなく、このテントの中の場所割のせいであった。
狭いテントの中に無理矢理五人が横になっているせいで、隣との距離はとても近い。仰向けだった花京院は静かに身動ぎし、横を向いた。背中側からは、穏やかな可愛らしい寝息が聞こえてくる。そこで眠っているのは真生子だった。彼女が隣で横になっている、たったこれだけのことで花京院の心は乱されていた。
普段ならば、年頃の孫娘を気遣うジョセフの計らいにより、ホテル等で花京院やポルナレフが彼女と同室になることはないし、野宿や雑魚寝の際にも、真生子の両脇は彼女の祖父と兄でガッチリとガードされる。しかし今日に限っては違った。まず、夕食の後、ジョセフが早々にテントの端で眠ってしまい、次に承太郎が反対側の端に陣取った。それからやってきた真生子が、迷った末に承太郎の隣に寝袋を敷いた為に、ポルナレフはジョセフの隣に寝ることになり、その結果、焚火の始末をしていて最後にテントに入った花京院が全員の真ん中、つまり真生子とポルナレフの間で眠ることになってしまったのである。
彼女の規則正しい寝息や服が擦れる音に、妙にドギマギしてしまい、眠れぬまま数時間が経とうとしていた。
昼間、件のスタンド使いの仕業が原因で、熱中症を起こして意識を失い、ラクダから落ちた真生子を抱きかかえた時の、あの腕の感触が何度も蘇る。生理的な涙で濡れた瞳が震える瞼から覗き、視線がぶつかったような気がしていたが、彼女はその時のことを覚えていないらしい。彼女の体は思っていたよりも軽く、柔らかく、腕にすっぽりと収まるほど小さかった。
狭い砂陰に身を隠しながら、苦しそうに呼吸を繰り返す真生子の口に無理矢理水を含ませた時、僅かに零れた雫が唇を伝う様子を思い出し、花京院は身震いした──ぼくは何を考えているんだ。
彼女のことで頭が埋め尽くされてしまうのは、なにも今日に限った話ではない。話し掛けると嬉しそうにはにかむ表情も、何かあるとすぐ耳の淵まで真っ赤に染めてしまうほど照れ屋な様子も、負傷を手当てしてくれる時に触れる優しい手も、鮮明に脳裏に思い描けるほど脳裏に焼き付いている。それらを思い返す度、実際に目にする度、勝手に頬が緩み、心拍数が上昇し、頭の芯に熱が篭るように感情が高揚した。
この現象を──いわば"症状"を──感じるのは殆ど初めてに近しいが、この感情をなんと呼ぶべきなのかは分かり切っていることだった。それだから、隣に彼女がいるというだけで、何も変なことを起こそうという気が無くてもこんなに緊張してしまっているのだ。
頭の中で羊を数えるという古典的手法には然程意味を見出せず、ただ頭の中を無にすることに努める。しばらく何も考えないようにしていると、頭に靄がかかったように意識が遠退いてきた--だというのに、背後から聞こえた寝返りの音に、花京院は再び現実へ引き戻されてしまった。
微かに呻くような声。毛布や寝袋がモゾモゾと音を立てている。真生子は何度か寝返りを打った後、少ししてから起き上がる気配がした。控え目な物音と共に、彼女は静かにテントから出て行った。
花京院は寸刻ジッと横たわったまま思考を巡らせていたが、意を決して体を起こした。
暗闇の中、手探りで靴を見つけ出すと、音を立てぬようにしてそうっとテントの出入口をくぐる。
真生子は、こちらに背を向け、テントの傍の焚火跡の前に座り込んでいた。肩に引っ掛けた毛布を、細い指が頼りなげに押さえている。その背中があまりにも儚げで小さく見え、話し掛けるのを躊躇してしまう。ようやく足を踏み出すと、砂を踏む音に気付いて真生子は振り返った。
「花京院くん……」
驚いたような、恥ずかしがるような可愛らしい微笑みを向けられ、つられて口元が緩んでしまう。
「目が覚めてしまったのか?」
「うん……ごめんなさい、起こしちゃったかな」
「いや……実は、眠れなくてずっと起きていたんだ」
「そうだったの」
そう言ったきり、真生子は前に視線を戻した。彼女の隣、肩が触れ合わない場所へ静かに腰を下ろす。
灰と炭になった薪の間で、僅かな残り火がチラチラと燻っていた。
「それで具合はどうなんだ? まだ横になっていた方が良いんじゃないか」
「少し怠いけど、もう大丈夫……熱は下がったみたいだから」
そうは言うものの、彼女の顔色はあまり良くない気がした。砂漠の夜は、昼間からは想像もできないほど冷え込んでいる。体を冷やしてしまわないうちにテントに戻って欲しいが、彼女にはそうする気は無いらしい。
「あ……あのね」
ぽそり、と消え入りそうな声に目を上げると、真生子は自分の膝に顔を埋めながらこちらを見つめていた。
「わたしがラクダから落ちた時、助けてくれてありがとう」
「え? ああ……いや」
不意な事で驚いた。覚えていないのだと思っていた。そう言うと、承太郎から教えてもらったのだと彼女は言う。
照れ臭そうに目を細め、唇を綻ばせるその表情に、また無意識のうちに鼓動が速まっていく。
「危ないと思った瞬間、咄嗟に手が出てしまったんだ」
体を強張らせながらそう言った花京院を、真生子は不思議そうに見上げた。
斜め上を向いた丸い瞳は空を映し出し、その透き通るようなキラキラした緑色の表面に、無数の星屑が鏤められて、大粒の美しい宝石のように輝いている。花京院は、ごく、と唾を飲み込んだ。
「君が無事で良かった」
真生子は僅かに目を細め、耳の襞までしっかりと赤く染めた。うん、と生返事をして、彼女は焚火の名残の方へ顔を向けてしまった。
少しの間が空く。居心地の悪い沈黙では無かった。夜の砂漠を駆ける冷たい風が吹き抜け、火照った頬を撫で去って行く。襟ぐりから入り込む冷気に背筋が震えたが、まだ寝袋の中へ戻ろうとは思わなかった。滅多に無い二人きりの時間を、もっと大切にしていたかった。
「なあ……真生子」
少しの間、話題に迷った後、花京院はそっと口を開いた。
「うん?」
「日本に帰ったら、君は最初に何がしたい?」
「帰ったら……?」
真生子は一瞬間の抜けた顔をした後、口元に手をやってううんと考え込んだ。色々考えを巡らせた後、
「お母さんのご飯が食べたいかな」
と彼女ははにかんだ。どこかへ行きたいだとか、一日中眠っていたいだとか、そういう答えを予想していたために、その可愛らしい答えに思わず笑みが零れてしまう。
「花京院くんは?」
「そうだな……ぼくも同じだな。とりあえず、母さんの手料理をお腹いっぱい食べたいかな」
うふふ、と微かな笑い声が耳を擽る。ふんわりと優しく笑いかけられると、つられてこちらも笑顔になってしまうような、周りを和ませるその性質は、確実に彼女の母のそれを受け継いでいるのだろう。
あたたかで、優しくて、守ってあげたくなる少女だと思う。愛しい、という純粋な感情と、庇護欲と共にどうしようもない劣情が僅かに込み上げてくる。心が締め付けられるように甘く痛んだ。
ふと、微笑んでいた真生子の表情がおもむろに陰り、彼女はゆっくりと俯いた。眉は不安そうに顰められている。口の中でモゴモゴと不明瞭なことを呟いたので聞き返すと、「日本に帰っても」と彼女は言い直した。
「日本に帰っても……会えるよね?」
下を向いたまま発せられた憂慮を帯びた声は、うっすらと上擦っている。花京院はもう一度、今度はゆっくりと唾を嚥下した。
「会えるさ……いつでも会える」
答えると、真生子は少し安心したように眉根を解いた。その目の端に滲んだ涙を見つけ、堪らず、胸がつまったように苦しくなる。あまりにも儚げで、今にも壊れてしまいそうだった。心臓が押し潰されそうな感覚をおぼえながら、花京院は口を噤んでしまう。
エジプトへ辿り着き、DIOを倒せば旅は終わりを迎える。そうして仲間達はそれぞれの故郷へ戻って、きっと元通りの生活を送るのだろう──命がその時まで無事であれば。
全員が無事でいられるという保証はどこを探しても見つけることは出来ないし、それは誰にも誓えぬことだった。真生子にも、花京院自身にも。
「一緒に……帰ろうね。絶対……」
震える吐息と共に、囁くように吐き出された言葉は頼りない。花京院はきゅっと唇を噛み締め、深く息を吸い込んで頷いた。
「ああ」
その僅かな時間が、その隔たりが、この数十日の過酷な旅路よりも何よりも長く遠く感じられた。
砂に投げ出されていた小さな手の上へ、自分の手を移動させる、僅か数センチのちっぽけな距離が。