体が動かない。
冷たいアスファルトに頬を押し付けながら、真生子はぼうっと、近付いてくる金色の靴を眺めていた。背中から壁に叩きつけられ、全身を強打した上に、ガラス片で彼方此方を切ってしまった。太い血管を傷付けたらしく、だらだらと出血するばかりで止まる様子がない。自身のスタンドが持つ僅かな自己治癒力が働いているのを感じるが、このまま放置し続ければ失血死してしまうのだろう。
死ぬのはもう怖くなかった。自分がやるべきことは全てやった。ストリートの向こうで、仰向けに倒れている学生服の青年に目を向ける。全身にナイフを穿たれた承太郎はピクリとも動いていなかった。それでも、真生子は彼が本当に死んだとは思っていなかった。
生きていて欲しい、という希望とは違う。兄は生きているのだ、という根拠の無い奇妙な確信が真生子の中にはあった。後のことは、きっと彼が何とかしてくれるに違いないと。
「驚いたぞ。まさかお前がこのわたしに攻撃を仕掛けてくるとはな」
目前に立った金の靴の持ち主は、乱暴に真生子の髪を掴んで頭を上げさせる。痛みに苦しみながらも、骨が折れて力の入らない腕をどうにかして地面に突き、真生子はブルブルと震えながら立ち上がろうと試みた。
「ほう、まだ立ち上がるか」
更に髪を引かれて、真生子は激痛にうっと呻いた。
夜空の下で輝く黄金の頭髪と、ギラギラと邪悪に輝くピジョン・ブラッド。厚い唇の端はきゅっと持ち上げられている。ぞっとするような美しさを持つその姿を、こんなに間近で目にするのは初めてのことだった。
「DI……Oっ」
残り僅かな気力を振り絞り、スタンドの腕を振り上げるものの、体を乱暴に後ろへ放られてしまう。瓦礫の上に仰向けに転がされ、あまりの苦痛に噎せ返ると、口の中に血の味がした。
通りの建物に挟まれた、狭い空が目の前に広がっていた。濃紺の生地の上に、ポツリポツリと銀の粒が転がっている。ぽっかりと浮かんだ丸い月の傍に、寄り添うように光る明るい星を見つけた。
宵の明星。
太陽光を反射して輝く金星を、ぼんやりと見上げていた真生子の視界に、再びDIOは現れた。美しい月と星々は、彼の背に隠されてしまった。
「無駄だ……勝てないと分かっていて、何故尚も抗おうとする? 愚かな娘よ」
やはり体を起こそうとする真生子に、DIOは芝居がかった口調で呆れたようにそう言う。死ぬのは怖くない。だが、無抵抗で死にたくはない。最後の一瞬まで諦めない。希望を捨てたくない。
血を搾り取ろうと、DIOが指を近付けてくる。それを眺めながら、ゆっくりと震える唇を動かした。
「だって……あなたにも、いたでしょう? おかあさんが……」
掠れた声で呟いた言葉に、紅眼が僅かに見開かれたのを、真生子は血が滲む視界の中で確かに見た。
彼の脚の向こう側で、倒れている承太郎の手が、微かに動いたような気がした。DIOは驚いて振り向き、舌を打って踵を返す。巨体が遠退いていくのを見つめながら、真生子は兄が生きていたという安堵感に包まれ、そのまま目の前が暗くなってゆくのを感じた。
◆◇◆
白い清潔な病室に、不規則な電子音が響いている。
「大変危険な状態です」
処置を続ける看護婦は、深刻そうな声色でそう告げた。
承太郎はベッドの傍に立ち、横たわる少女の姿を覗き込んでいた。ボロボロのセーラー服と、折れた腕や脚に当てがわれた添木、口元に取り付けられた酸素マスクが、彼女の負傷の重大さを示している。白い腕に突き刺さった何本ものチューブが痛々しい。ベッドから伸びる無数の管が接続された医療機器は、不規則な心電図を吐き出し続けていた。シーツの下の胸が、微かに上下し続ける様を、承太郎は黙って見つめ続けた。
総量の三分の一もの血液を失い、失血死に至る一歩手前の状況で救出された彼女は、輸血を続けても尚意識を取り戻さなかった。DIOの遺骸を灰に還してから、既に数時間が経っている。先程、母のホリィが全快したと一報が入った。旅の目的は全て達成されたのだ。誰よりも母を想っていた妹に、それを伝えなければならなかった。
隣でしゃがみ込んでいる祖父が、真生子の血の気の無い手を握り締め、祈るように俯いている。承太郎は彼女の顔を見た。いつも暖かい慈愛と穏やかな光を湛えて兄を見上げる瞳は、今は固く閉ざされている。白い頬に、血を拭き取った痕が薄っすらと伸びていた。
「いかん! 真生子ッ」
ジョセフの声に顔を上げる。電子音が乱れ始めていた。モニターに目を向けると、心拍数を表す数値がどんどん減少している。看護婦たちが慌てふためきながら病室の外へ他の医師を呼びに行き、様々な器具や薬を用意し始める。
間に合わないだろう、と承太郎は確信した。看護婦や医師たちを押し退け、真生子に覆い被さった。
モニターがゼロを表示し、心電図が水平線を描き始めたその刹那、承太郎は躊躇う事無く、スタープラチナの腕を妹の左胸に突き入れた。
◆◇◆
誰かが呼んでいるような気がする。
そうっと目を開けると、視界は真っ白に埋め尽くされていた。天地左右、どこにも何もない空間。ただ白く塗り潰されただけの世界に、真生子は独りぼっちで突っ立っていた。夢の中にいるように、体がフワフワとして実感が無い。奇妙な感覚だった。暫し立ち尽くした後、恐る恐る歩き出してみる。
ふと、柔らかいものを踏んだような感触がした。見下ろすと、足の下には草が伸びている。気が付けば、辺り一面に草原が広がっていた。さっきまで何もなかったのに、と真生子は首を傾げる。また数歩進むと、ただ青々と輝くばかりだった草原は花畑へと姿を変えていた。ぼんやりと輝く、白い小さな花が一面に咲き誇っている。
ああ、自分は死んだのだなと真生子は妙に納得した。ある種の感心すらおぼえていた。だいぶ想像とは違っていたが、こんな綺麗な場所が死後の世界だというのなら、案外悪く無い。
キョロキョロと辺りを見回しながら、三たび足を動かし始めた瞬間だった。
「真生子」
呼ばれ、真生子は弾けるように振り返った。
ハッと気が付くと、白く染まるばかりだった空は深いミッドナイト・ブルーに覆われ、幾億の煌めきが頭上で光を放っていた。
淡く輝く花々の間に、一人の青年が立っている。黒曜の髪と透き通るような青い瞳。クラシックな、紳士的な服装。長身を真っ直ぐに伸ばし、微笑みながらこちらを見つめている。彼の顔立ちに、何となく見覚えがあった。
「どうして……わたしの名前を?」
沢山の言葉が浮かんでは消えてゆく。最終的に口から漏れたのは、そんなつまらない質問だった。
「ずっと見ていたよ」
柔らかで、聞き取り易いブリティッシュ・イングリッシュ。穏やかなゆったりとした声は、彼の性質をそのまま現しているのだろう。人の良さそうな笑顔は、一目で心を和らげる力がある。
「あの……あの」
「よく頑張ったね」
「あなたは、」
駆け寄ろうとした真生子を、彼は手で制し、すっと空を見上げた。彼の視線の先を追い掛ける。
無限に広がる宇宙の耀きを、星々の光を、月に寄り添う金星を、頭上を覆う銀河を、彼は見つめていた。
その横顔に、真生子は自身の祖父の、そして兄の面影を確かに捉えた。
「君には沢山の仲間がいる。その人たちを、これからも大切にするんだよ」
あの、と真生子はまた口を開き掛けた。彼は優しく微笑み、「さあ、往きなさい」と真生子を諭す。
「承太郎とジョセフが君を呼んでいる」
ぶわり、と強い風が辺りに巻き起こった。遠くで名前を呼ばれているのが聞こえた。背後から引っ張られるような感覚。突然巻き起こる、白い温かい光の洪水に、真生子は呑み込まれた。
穏やかな表情で真生子を見送る青年の、アンティークブルーの瞳と、最後に目が合ったような気がした。
◆◇◆
規則的な電子音が聞こえてくる。
白い見慣れぬ天井。朝の陽光が、温い風と共に室内に差し込んでいる。兄と祖父が、顔を覗き込んでいる。
「夢を見ていたの」
案外、あっさりと声が出た。
ジョセフに手を強く掴まれている事に気が付き、真生子はその大きな手をそっと握り返した。薄く微笑みを浮かべて見せると、彼の口髭に覆われた唇は微かに戦慄いた。
「おじいちゃんの若い頃に似てる……黒髪の男の人と会った。青い目の……」
祖父の、包帯に覆われた喉仏が、僅かに震えるのが見えた。「真生子」小さな声で孫を呼び、ジョセフは肩を揺らしながら俯くと、握り締める両手にギュッと力を込める。それを額に押し当て、彼は顔を隠した。
「それは……それはな。わしの、おじいちゃんじゃ」
黙っていた兄が深い溜息を吐き出し、学帽を引き下げた。