ホテルのロビーは観光客や地元の人間、ビジネスマンでごった返しており、宿泊の受付をするフロントの前には小規模の列が形成されている。その列の半ば、何か話し込みながらチェックインを待つアヴドゥルとジョセフの背中を眺めながら、学生三人組は大人しくソファに腰を下ろしていた。
旅客機の中で「塔」の暗示を持つスタンド使いに襲撃された為に、エジプトへと向かう旅路ははじまりから難境を迎える羽目になった。体力もそれなりに削られてしまっている。ぼんやりと目の前の何もない空間を見つめていた花京院はふと、隣に座る真生子の頭が頼り無げに揺れている事に気が付いた。ゆらゆらと船を漕いでいる。声を掛けようとしたところで、飛行機や船の中で青ざめていた彼女の様子を思い出し、花京院は開きかけた口を閉じた。疲れているのも無理はない。数日前までは全くもって平凡な人生を送っていた彼女にとっては慣れぬことの連続だ。体だけでなく心も疲弊しているに違いない。
ことん、と傾いた頭が花京院の肩に寄り掛かった。完全に寝落ちてしまっているようだ。彼女の顔をそうっと覗き込む。優しいまるい瞳は、今は長い睫毛に縁取りされた白い瞼に隠され、柔らかそうな唇はほんの少し開いて、ゆったりした呼気を規則的に吐き出し続けている。呼吸に合わせて上下する胸の中心のスカーフに視線を動かし、花京院はハッと我に返って頭を小さく振った。
疲れているのは自分も同じらしい。邪な感情を覚えそうになったことを反省し、花京院は身動ぎした。彼女がそのまま前へずるりと倒れてしまわないように、肩をほんの少し動かすと、真生子はピクリと瞼を反応させる。起こしてしまったのか。ごくごく小さく名前を呼んでみると、彼女は口の中でムニャムニャと何事かを呟いた。
「ん……おにいちゃん……?」
気持ちよさそうに頬をゆるめ、真生子は花京院の腕に額を寄せた。彼女の隣、花京院の反対側に座っていた承太郎が、兄という言葉に反応して顔を向けるも、真生子はすでに寝入ってしまっている。聞こえてくる穏やかな寝息に苦笑しながら、承太郎と顔を見合わせた。
「寝言か」
「ぼくを君と間違えているようだ」
承太郎は例の口癖を呟いたあと、それきり興味から逸れてしまったらしく、帽子を目深に被り直して前を向いてしまった。
花京院は改めて、彼女の方を見下ろした。プリーツスカートの上に、白い手がぽとりと投げ出されている。少女らしい綺麗な手だ。自分の骨張ったそれとは違う。掴んで力を込めれば、うっかり握り潰してしまいそうな大きさだ。ふと、微かに甘い匂いが鼻をくすぐる。女性用のシャンプーの匂いだ、と気が付いて、花京院はぎくりとした。
彼女がこんなに、触れるほど近くに居たことは今まであっただろうか。……いや。
それを意識した途端に、花京院は妙に息苦しさを感じ始めた。緊張して、額に汗が滲む。すやすやと安らかそうな寝息が、やけに耳に響いて落ち着かない。膝の上で組んだ指を意味もなく動かしながら目を逸らす。
女性や子供に優しく振る舞う、というのは花京院が身に付けた処世術のうちの一つだった。弱いものには優しくあるべきだというのは勿論として、適度にそうしていれば周りとの関係を円滑にできる。だから真生子にも、今までクラスの女の子たちにするのと同じように接していた。そういうつもりだった。だというのに、こんなに近くで気を許されると、何だか妙な気持ちになってしまう。
「待たせたのう。やっと部屋がとれたわい」
そんな軽快な老人の声に顔を上げると、2つのルームキーを手に笑顔のジョセフと、ホテルのパンフレットを持ったアヴドゥルが歩み寄ってくるところだった。ジョセフは承太郎を見、それから真生子と花京院に気付いた。ムッと精悍な眉を顰めた後、立派な髭を蓄えた口元がニヤ~と歪んでいく。
「なんじゃなんじゃ? お前たち、いつの間にそんな仲に……」
「違いますよ。これは真生子が……」
反論しようと大きな声を出すと、それに驚いたらしく真生子の肩がビクリと跳ねた。目線を落とすと、彼女は目のあたりを手の甲で軽く擦っている。ぼんやりした顔で、花京院の肩に頭を寄せたまましばらく動かなかったが、寄り掛かっている腕が兄のそれと違うことに気が付いたらしい。そのままハッと顔を上げたので、花京院と視線がぶつかる。すこし寝惚け気味だった瞳がどんどん見開かれ、丸くなっていく。
「あ、」
「お、おはよう」
苦し紛れにそう言って笑いかけると、真生子は一瞬で、ボッと音がしそうな勢いで、耳の淵まで顔を真っ赤に染めた。恐らく反射的に後ろへ体を仰け反らせたので、彼女の兄の腕に背中をぶつけてしまう。承太郎は僅かに眉を動かしただけで何も言わなかった。
「ご、ご、ごめんなさい、あの、寝ちゃってたみたい、その……」
あわあわと胸の前で手を動かす様子が可愛らしくて、思わず笑ってしまう。
「真生子はシャイじゃのう。わしの若い頃はなあ……」
「ジョースターさん。あまりお孫さんを揶揄うものじゃありませんよ」
ゴホンと咳払いをして話を遮ったアヴドゥルに、真生子はほっとしたような視線を向けている。ジョセフは豪快に笑うと、承太郎にルームキーを差し出して、兄妹で同じ部屋に泊まるように言った。祖父から鍵を受け取った承太郎はひとつ返事で立ち上がり、エレベーターの方へぬしぬしと歩き出す。真生子も慌てて椅子から飛び上がり、小走りで兄の方へ駆けていく。華奢な背中で揺れるセーラー服の襟を見送りながら、花京院はしばらく惚けていた。
「可愛いじゃろ? わしの孫は」
ぽん、と肩に手を置かれて顔を上げると、ジョセフは愉快で仕方ないというようにニヤついている。花京院は立ち上がり、「そうですね」と曖昧に微笑んで誤魔化した。先程まで真生子が寄り掛っていた肩には、なんだかまだ彼女の温もりが残っているような気がした。