「今日はトリプルが二部屋じゃ。それも、上から二つ目のランクのな」

受付のカウンターから戻ったジョセフが、何処と無くウキウキした様子で二本のルームキーを突き出した。
おお、という薄い歓声が仲間達から漏れる。薄汚く狭い部屋で皆で雑魚寝したり、背中が痛くなるような硬いベッドで眠らなくてはならなかったり、あるいはそもそも部屋が空いていなかったりホテルが見つからなかったりして車中泊か野宿──というようにして夜を過ごすことが多い一行にとっては、「そこそこ良い部屋に泊まれる」ことは、大変貴重な、心からの癒しの機会なのである。
誰と誰が一緒になる、と旅行気分で騒ぎ出したポルナレフ、そして彼に絡まれている承太郎と花京院を、真生子はグッタリと眺めていた。久々に良いベッドで眠れると聞いて、頭の中が柔らかいシーツと毛布と枕のことでいっぱいに埋め尽くされていた。

「真生子、今日はわしとアヴドゥルと同じ部屋でいいかの?」

尋ねられ、騒がしい男三人組を一瞥した後で、うん、と気の無い声でした返事にも祖父は満足したらしかった。

充てがわれた部屋は、扉の正面に大きな窓が設置されていた。室内のどこからでも、夜の闇に沈む美しい街と、藍色に染まった海、その上に浮かぶ白い月を眺めることができる。
狭い車の中から何度も何度も目にしてきた景色だが、このホテルのような高い位置から街を見下ろすことは殆ど無い。
シャワーを浴びて寝間着に着替えてから、真生子は暫し窓際に寄って外を眺めていた。
体を洗って湯船に少し浸かっただけで、ある程度の疲れが取れたような気がするものだから、自分は思いのほか丈夫に出来ているのだ、ということにほんの少し安堵する。女だから、一番幼いからという理由で仲間達に遅れを取り、迷惑をかけたくはない。きっと明日もまた頑張れるだろう。
街中の道路を走っていくミニチュアのような自動車を目で追いながら、ついつい物思いに耽っていた。

「窓のそばは冷える。湯冷めしてしまうぞ」

窓ガラスの反射の中、真生子の背後で、小ざっぱりとした格好のアヴドゥルが苦笑していた。
入浴した為、いつも丁寧にセットしてある長い髪の毛は下ろされ、後ろで一つに括ってある。独特なアクセサリーも外され、いつもとは一味違う印象だ。彼と入れ替わりに、今はジョセフが浴室に居る。
アヴドゥルと二人きり、というのはなかなか稀な状況だ。

「何か面白いものがあったか?」
「いいえ……でも、上から見ると、街の光が綺麗だなと思って」

真生子はそうっと分厚いカーテンを閉め、襞を軽く整えてから、アヴドゥルが腰掛けている隣のベッドへ移動した。

「君は結構、ロマンチストなところがあるな」

ロマンチスト、という普段はあまり耳にしない言葉に、真生子は首を傾げる。

「女の子だからかもしれないが。この前の夜、私がした昔話を覚えているか」
「ライラとカイスの?」

アヴドゥルは頷いた。


空室のあるホテルが見つからず、外でテントを張って野宿したことがあった。
その日は蒸し暑く、中々眠れなかった真生子の為に、アヴドゥルはエジプトに伝わる恋物語を教えてくれた。
貴族の男女がお互いに惹かれ合うが、男は女を愛するあまり狂人になってしまい、結婚も許されず、結ばれぬまま二人は死んでしまう。

「カイスは、お屋敷からライラを無理やりでも連れ出して、二人で逃げようとは思わなかったのかしら」

大体の話を聴き終えた真生子の第一声はそんな疑問だった。

「そうだな……門番が居て、どうやっても屋敷に入れなかったんじゃあないかな」
「門番?」
「何にせよ、見張りが居たんだろう。とにかく二人は愛し合っていたが、厳しく監視されていて、会うことは出来なかったんだ」
「うーん……でもライラは、きっとカイスがいつか迎えに来てくれるって思っていたかも……好きじゃない人と無理やり結婚させられても、それを心の拠り所にして、我慢して、我慢して……ずっと待っていたのかも」

地面に肘をついて頬に掌を当てていた真生子が、ぼうっと下の方の空間を見つめながら呟くと、隣で同じように体を起こしていたアヴドゥルが小さく笑った。
手元に置かれた小さなランプの中で、炎の魔術師が灯した可愛らしい炎が揺れており、その近くには彼が携帯しているタロットカードが並べられている。何を占っているのか、それがどういう意味なのかは真生子には分からない。
穏やかな栗色の瞳が炎の揺らめきを映し出しているのを、真生子は横から見つめていた。

「アヴドゥルさんは……その物語をはじめて聞いた時、どう思いましたか?」

彼が物語を語ってくれた時と同様に、眠っている他の皆を起こさないように小さな小さな声で尋ねる。
彼は、並べたカードを眺め、少ししてから混ぜ、裏返してキチンと重ねて束ねながら、何か考えているようだった。

「そうだな……気が狂ってしまうほどに愛しい女とは、ライラは一体どれほどの美女なのかと思ったかな」

彼にしては珍しい答えに、と真生子がフフッと笑うと、アヴドゥルもほんの少し口角を上げて優しく微笑んだ。

「さ、もう眠りなさい。君を夜更かしさせたと知られたら、私がジョースターさんに叱られてしまう」
「またお話してくれますか」
「勿論だよ。おやすみ、真生子」
「おやすみなさい」

真生子が寝袋の中に戻り、毛布を引き上げたのを見届けてから、アヴドゥルはランプの炎を消した。
彼のこういう優しいところが真生子は好きだった。二人で話していると、父親と会話している時のような安心感を覚えるので、その後すぐにぐっすり眠ることができたのを覚えている。


「真生子。実は私は、あの話を他の連中にもしたことがあるんだ」
「え?」

回想から意識を引き戻された真生子は、きょとんとしてアヴドゥルを見上げた。
他の連中? と繰り返すと、彼は頷き、体が冷えるからとシーツの中に入るよう真生子に促す。

「逆に花京院とポルナレフが遅くまで起きていた日があってな。私は真生子にこんな話をしてやったのだと言って、二人にも同じ話をした」
「ポルナレフさんと花京院くん?」
「そうだ。まず、ポルナレフは何と言ったと思う」
「アヴドゥルさんと同じことを言ったのかしら」

シーツを鼻の下まで引き上げ、真生子はニヤッとした口元を隠しながら答えた。はは、とアヴドゥルは声を出して笑い、その通りだと肯定した。

「私はポルナレフが君と同じようなことを言うと思っていたんだがな。無理に連れ出したりはしないのか、と聞くと気が触れたカイスにはそれができないのだろうと答えた」
「あれ? なんていうか……意外と現実的かも」

思ったままにそう口にしてから、真生子は慌てて「意外とっていうのは、ポルナレフさんはフランス人だし、女性が好きだし、もっとロマンチックなことを言うのかなって思ったから」と補足した。アヴドゥルは苦笑しながら同意する。

「花京院くんはなんて?」
「自分が恋愛をしたことがないから、誰か一人の女性を『頭がおかしくなるくらいに愛する』だなんて想像がつかない、と言ったかな」
「…………」
「なんだ。妙な顔をして」

恋をしたことがない、と聞いて顔を顰めた真生子を見咎めて、アヴドゥルは身を乗り出した。
皺の寄った眉間を、指先で軽くトンと叩かれ、今度は八の字眉になりながら彼を見上げる。

「……わたしもしたことありませんから」
「恋か?」
「ええ」

ほう、と意外そうな声色でアヴドゥルは返事をした。
「あの空条承太郎の妹」と、学校の不良たちに一目置かれていたのは良かった。そのお陰でくだらないトラブルに巻き込まれることはなかったし、稀に厄介な目に遭いそうになったとしても、兄の名前を出せば大抵の場合何とかなった。それは良かった。
だが、承太郎と「お近づきになりたい」女の子たちに付き纏われたり、逆に彼の妹だということで敬遠されたことも多々ある。
別に、その事で兄を恨んだり、怒ったりしたことはないし、しようとも思わない。むしろ、大勢との賑やかな人付き合いが苦手な真生子にとっては、ごく少数の気のしれた友人たちと過ごす方が楽なのだ。
しかし、そのために最近は家族以外の男性と関わる機会があまりなく、恋など出来そうにも無かった。

アヴドゥルは自分の顎に手を掛け、何か考えている。ベッド脇の柔らかい照明の光が輝かせている雄々しい瞳が、シーツから目だけを覗かせている真生子をじっと見つめていた。
少しの間そうしていた彼の口から、思いもよらぬ言葉が飛び出して、真生子は絶句する。

「今の君はそうは見えないがね」

ど、どういう。と動揺を隠せぬまま上擦った声で言うと、アヴドゥルはニヤリと笑った。

「君は、ライラはカイスに連れ出して欲しかったはずだと言ったな。悲愛のまま終わらせたくないと」
「…………」
「無意識に期待しているんじゃあないかな」
「いいえ。してません。だって、彼も、恋をしたことがないと言ったじゃないですか」

ぼわ、と一気に顔に熱が集まるのを感じて、真生子はシーツを引き上げた。
アヴドゥルが愉快そうに笑っている。浴室の扉が開く音がして、祖父が出て来たのだと分かった。
「なんじゃ、わし抜きで何を楽しそうな話をしとるんじゃ」とからかうジョセフに、なんでもないと曖昧な答えをシーツの中から返しながら、真生子は身体を丸めて毛布に顔を押し付けた。