窓の外は薄暗い闇に包まれ、よく晴れた空にぽっかりと浮かぶ青黒い雲の間から、白い月の光が地面を照らし出している。当然のように舗装などされていない地面にはゴロゴロとした石や岩が落ち、走行自体の妨げになるレベルのものは取り除かれているとはいえ、走る度ガタガタと揺れ、座席に接した尻や腰は鈍く痛んでいる。
今日は夜通しこのまま移動する予定だ。今は祖父が運転し、助手席でポルナレフが仮眠を取っているが、数時間ごとに交代するつもりのようだ。後部座席には、左から花京院、真生子、承太郎の順に座っている。図体の大きな男二人に挟まれている真生子は少々不憫だが、バックミラーを塞いでしまわない為には、一番体の小さな彼女が真ん中に座る他ない。
承太郎は引き下ろした学帽の下から隣の二人を覗いた。花京院は窓に寄り掛かって寝息を立てている。真生子もシートに頭をくっ付けたまま眠っているようだ。この酷い揺れにも大分順応し、最早揺り籠のような心地良ささえ感じているのかもしれない。
承太郎が長く薄い溜息をついた時、真生子の頭がカクンと揺れ、花京院の肩に寄り掛かった。窓から差し込む月光に晒され、彼女の顔が暗い車内で青白く浮き上がって見えた。
母と揃いの、柔らかな癖のあるブルネットが一房、白い頬にかかっている。明るい緑の瞳は、今は長い睫毛に縁取られた薄い瞼の向こうに閉ざされ、半開きの小さな唇が、やけに色褪せて見えた。
「…………お兄ちゃん?」
小さな声に、承太郎は我に返った。
無意識のうちに、彼女の肩に手を掛け、揺さぶっていた。目の前で透き通るようなエメラルドの双眸が瞬いている。こし、と瞼を擦りながら、真生子は欠伸をした。
「どうしたんじゃ、承太郎」
運転席から祖父の声が飛んできても、承太郎は妹から目を離すことが出来なかった。真生子はぼうっと兄を見上げている。彼女の肩を掴む手の力を緩める。気付かぬうちに随分強く握り締めてしまっていた。
「……ああ、なんでもねえ……起こして悪かった」
「ん」
ぽんと頭に手を置く。真生子は寝ぼけているらしく、そのまま兄の左腕にぎゅっと顔を押し付けた。直ぐにスヤスヤと小さな寝息が聞こえてくる。
承太郎は二度目の溜息を漏らし、学帽の下に滲んでいた汗を拭った。
「皆疲れとるんじゃ……お前も眠れる時に眠っておけ」
「…………」
「承太郎?」
自分の腕に貼り付いている真生子の表情は見えないが、穏やかに眠っているに違いなかった。
ジョセフに窘められ、シートにどっかりと座り直す。祖父はバックミラー越しにチラリと孫二人に視線をやった後、グッと手に力を込めてハンドルを握った。
「真生子は、ホリィにそっくりじゃからのう……」
心の中を言い当てられたような気分になり、承太郎はギクリとした。
真生子の青白い顔と、布団の中で魘される母の苦しげな表情が重なって見え、つい、手を伸ばさずにいられなかった。生きているのか、ちゃんと息をしているのかと。彼女の緑の目が開いた時、背中に冷たい汗をかいていた自分自身に気付き、そして確かに安堵した。
承太郎は妹を見る時、いつも同時にそこに母の存在を見る。いつか彼女が言っていたように、彼女が兄を見る時、世界のどこにいるかも分からない父を感じるのと同様に。
「大丈夫じゃよ、承太郎……お前達は大丈夫じゃ……」
言い聞かせるように呟く祖父の表情は、帽子に隠れて伺えなかった。
◆◇◆
次に訪れた町でホテルを取り、真生子は承太郎と同じ部屋に割り当てられた。長時間の移動で腰や尻が痛い。口には出さないが皆疲弊し、口数も減っているように思える。そんな中、交代交代、運転を続けてくれた祖父とポルナレフには感謝の気持ちしかない。
夕食まではまだ時間がある。シャワーを先に浴びた兄と入れ替わり、真生子も砂塵と汗に塗れた体をすっかり清めた。濡れた髪を拭きながら部屋に戻ると、行儀良く二つ並んだベッドの奥側で、学ランを脱いだ承太郎が横になっていた。頭の後ろで手を組み、眠っているらしい。学帽はサイドテーブルに置かれている。
真生子は静かに手前のベッドに腰掛けた。窓にはまだカーテンが引かれていないが、ガラスの向こうは既に青紫を帯び、一等星も低い位置で輝いて見える。
ふと承太郎に目を遣る。ピクリとも動かない。真生子は彼のベッドに寄り、顔を近付けた。
余りにもジッとして反応がないので、そのまま死んでいるのでは、というしようもない不安が過った。そっと逞しい胸に手を当て、耳を澄ます。筋肉質な胸板の向こうの確かな鼓動と、静かな吐息が聞こえてきた。
ホッとして兄から離れようとした時、彼の胸に添えていた腕を急に掴まれ、真生子はつい変な声を上げてしまった。
「……真生子、」
喉に少し引っかかるような、低く掠れた声。黒々した睫毛の間から、深い緑の瞳が覗く。きつく掴まれた腕は、もう痛いほどに握り締められている。
お兄ちゃん。と小さな声で呼ぶと、彼はハッとしたように手の力を緩めた。
「ごめん……起こしちゃった?」
「ああ……」
やおら上体を起こし、ベッドの淵に腰掛けて、承太郎はぼんやりと側に立つ妹を見上げる。あまりにじっとりと見つめてくるものだから、少し戸惑ってしまう程だ。
「どうかしたのか」
大したことではないのだからさっと流してくれたら良いものを、怪訝そうにそう尋ねられては、正直に口を開く他無くなってしまった。
「あのね……なんだか、死んでしまうみたいに見えて……確認してたの。寝てるだけだって」
言っているうちに気恥ずかしくなり、てれてれしながら答える。承太郎は鼻で笑うだろうか、くだらねえと一蹴するだろうか。
兄の反応は、真生子が予想したうちの何れにも当てはまらなかった。ゆっくりと目を見開き、若干青褪めたように見えた。
「お、お兄ちゃん?」
腰に腕を回され、真生子は激しく動揺した。胸の下に顔を押し付けてくる。珍しい事もあるものだと戸惑いつつも、彼の肩に手を置いて、それを拒もうとは思わなかった。
「何、甘えてるの? どうしたの?」
「何でもねえ」
アッサリと体を離しながら、承太郎は素っ気ない返事をした。
キョトンとした真生子をヨソに、学帽を被り、表面を払った学ランを羽織る。「おい、腹減らねえか」と全く何事も無かったかのように言うので、真生子はハッとなったあと、首を縦に振りつつも、頭の中は疑問符で一杯になっていた。
「ねえ……何なのよ、どうしたのよ」
「何でもねえと言ってるだろ。ただちょっと、おれとお前は紛れもなく兄妹だなと感慨深くなっただけだぜ」
「?」
首を傾げる真生子を、承太郎は無理矢理部屋から連れ出した。