メランコリックチャイルド | niente
子供の頃、嫌悪の感情を向けられることが恐ろしくて堪らなかった。異質なものを見つめるそれと同じ目を向けられるのが、怖くて仕方がなかった。
幼心に感じる「恐れられている」という感覚。他人から向けられる、慣れない悪意。それらから身を守り、「普通」な周りに少しでも溶け込むため、賑やかな群像の中で息を潜め、ひたすら自分を押し殺す。
空気のように、まわりに同化して見えなくなるように。
誰にも、気付かれないように。


◆◇◆


「…………大丈夫?」

肩を揺さぶられる感覚に、急速に意識が覚醒する。はっと目を開けると、辺り一帯の闇の中、白い輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。

「魘されてたよ」

ぽそぽそと、声量を絞った囁くような言葉。花京院はやおら体を起こした。ひやり、と外気に冷えた嫌な汗が背中を伝い落ちる。
自分のそれより二回りほど小さな手が、花京院の肩にそっと触れている。それを目で辿り、彼女と視線がぶつかったとき、薄い溜息がつい漏れ出した。

「真生子」

名前を口に出すと、彼女は心配そうに顰めていた眉を緩めたのが分かった。
月を背にこちらを覗き込む少女の髪の淵が、光に透けてキラキラと輝いている。花京院くん、と彼女は慰めるように小さく呼んだ。
目が少しずつ暗闇に慣れるにつれて、現実へ引き戻された脳も、眠る前の状況を徐々に思い起こしてゆく。昨晩は宿が見つからず、仕方がなく野宿をすることになったのだ。見回すと、焚火の残骸の周囲に、承太郎とジョセフ、ポルナレフが寝袋に入って横たわっていた。ジョセフの鼾の呑気さに、つい苦笑したくなってしまう。そんなパーティの年長者の隣に、空っぽになった寝袋がひとつ放置されていた。真生子が眠っていた場所だ。

「あのね……すごく、苦しそうだったから」

花京院の隣に行儀良く座り込んだ彼女は、そう言うとほんの少し微笑んでみせる。途端に申し訳なさが浮かんできて、堪らず顔を伏せた。

「すまない……君を起こしてしまったのか」
「ううん。気が付けて良かった」

そう言ってそっと水筒を差し出される。受け取って一口嚥下すると、ぬるくはないが冷たいわけでもない水が、熱っぽい喉元をするりと通過したのが心地良かった。

「……なにか、こわい夢を見てたの?」

そんな遠慮がちな質問に、花京院は少し間を開けてから頷いた。
軽い目眩がして、頭を軽く振る。無意識のうちに眉間に力が篭り、唇を噛み締めていた。「あの」と真生子はやはり控えめな声で続けた。

「よかったら、少し、その……お散歩しない? 気分転換に」

モゾモゾと、心底恥ずかしそうにスカートの上で手を動かしている。照れ屋な彼女だ。たったそれだけのことを提案するのに相当の勇気を要したに違いなかった。それほど、気遣われているのだ。
ああ、と短く返事をして立ち上がると、真生子もホッとしたような面持ちで腰を持ち上げた。



頭上を覆う木々の影は闇が一段と濃く、枝葉の隙間から差し込む月明かりが、薄ぼんやりと足元を照らし出している。林を抜けた先には、樹木にぽつぽつと囲まれた小さな池が鎮座し、頭上にぽっかりと浮かんだ丸い月を水鏡に落とし込んでいた。赤道に近い地方といえ、季節は秋から冬へ移り変わる最中だ。風が吹き付けると少し肌寒い。
草を踏み締めながら歩く花京院の少し後ろを、真生子は黙って付いてきていた。ちらりと目だけで振り返ると、胸の前で手をごにょごにょと動かし、落ち着かない様子でいる。彼女と一緒に居る時の沈黙が、これほど気まずいと思ったのは初めてだった。

「花京院くん?」

池畔で立ち止まると、真生子は不思議そうに呼び掛けてくる。だいじょうぶ、ともう一度訊かれたが、今度は頷けなかった。

「……その、夢って」

そっと尋ねられ、一瞬息が詰まるような感覚をおぼえる。

「……話したくないかな?」

躊躇いがちな小さな声に、花京院は「いや、」と返事をした。

「昔の夢を見ていたんだ」
「昔の?」
「聞いてくれるかい」
「うん」

真生子はほんのりと微笑んだ。優しげな瞳が僅かに細められ、純真さに溢れた真っ直ぐな好意が向けられているのを感じる。乾いた唇を舐めてから、花京院はゆっくりと口を開いた。

「ぼくは……子供の頃からずっとひとりだった」

夜の冷気に冷えた風が、池の上を渡って吹き抜けていく。

「ぼくのハイエロファント・グリーンは、物心が付いた頃からぼくの傍にいた。生まれつきなんだ。だから、周りの人にはどうして彼が見えないのか不思議だったよ。何もないはずの空間にむかって話し掛けたり手を伸ばしたりするぼくを、怪訝に思った両親は病院へ連れて行ったりもした。幻覚でも見えてるんじゃあないかってね」

内気がちだった性格が、想像上の「友達」を創り出したのでは、と医師が言っていたのを思い出した。
しかし、違う。彼は幻覚じゃあない。イマジナリー・フレンドでもない。

「それ」は現実に干渉できたからだ。

花京院の願った通りに動き、手の届かない高いところにある棚から本を取り出したり、何メートルも先の地面に落ちているボールを拾い上げたり、望めばもっと遠くまで行くことさえ出来た。

淡々と続く花京院の話に、真生子は黙って耳を傾けている。彼女がうんと微かに頷くと、柔らかそうな髪が揺れ、肩から滑り落ちた。
それに触れてみたい、と思った。無意識に、ぴくり、と指先が反応する。それを握り締めて止め、ゆっくりと唾を飲み込んだ。

「夢の内容は……そう、ある日に、友達と公園で遊んでいた時の夢を見ていたんだ。彼の帽子が風に飛ばされて、公園の隅にある大きな桜の木に引っかかった。ぼくは良かれと思って、周りの大人が見ていないのを確かめてから、スタンドを使ってその帽子を取ってやったんだ」

ハッキリと脳裏に蘇ってくる。
強張った表情、怖ろしいものを見る時の怯えた目。泣きそうになりながら母親の元へ走り去って行く後ろ姿。

ほんとうに、親切のつもりだった。ただ、その子のために少し良いことをしただけのつもりだった。
感謝されたかったわけでも、お礼を言われたかったわけでも、ハイエロファントを褒められたかったわけでもなかった。

誰かに恐れられるということの悲しさを、友達だと思っていた人が自分のそばから離れていく苦しさを、あの時幼心にはっきりと感じた。ほんとうの友達など、真に分かり合える存在など、一生出来るはずもなかったのだ。彼らには、ハイエロファントが視えないから。ならば友達など初めから作らないほうが良かったのだ。
その日を最後に、誰かのためにスタンドを使うことは無くなった。それからは、ただひた隠しに。「彼」の存在は、誰にも気付かれぬように。空気みたいに、押し隠して誰にもわからないように。

「花京院くん」

話を遮るように、そうっと優しい声色で呼ばれた。
我に返り伏せていた顔を上げれば、思いの外、真生子の顔が近くに見える。眉が悲しそうに八の字を描いていた。

「ごめんなさい……嫌な話をさせちゃったみたい」

力なく下がっていた手の甲に、彼女のそれが恐る恐る触れる。白い小さな手だ。柔らかくて、熱くて、傷一つもない綺麗な手だった。

「花京院くん、あのね……まだ花京院くんと出会って少ししか経っていないけど、でも……」

真生子は一度そこで言葉を切って、暫しの間、続きを真剣に思案したらしかった。

「ちゃんと、わかってるから」

……わかってる。
その純粋な慰めの言葉に、花京院はビクリと肩を揺らした。

「花京院くんが優しい人だって、ちゃんとわかってるから……それにもう、ここにはハイエロファントグリーンを怖がる人はいないよ」

温い感情がすうっと頭から引いて、その代わりに黒くモヤモヤしたものが、胸の芯から徐々に広がっていく。
彼女はどこまでも純朴で、ただただ優しいのだ。それは、とてもよく分かっている。彼女のそういうところが花京院は好きだった。彼女は、ただ慰めようとしているだけだ。素直な好意を、ひた向きに寄せているだけなのだ。
わかっているはずなのに、今は、その無償の愛情が腹立たしく、憎々しくさえ感じられる。
無責任だ──と、思った。

「あのね、だから──」
「君に何がわかるっていうんだよ」

続きを遮って、感情の無い、冷たい声が喉から滑り出た。
真生子の丸い目がゆっくりと見開かれる。開きかけていた口元は硬直し、僅かに紅潮していた頬がみるみる青褪めていく。花京院くん、と蚊の鳴くような声で彼女が呼んだ。

ああ、しまった。

頭の隅に後悔の念が滲み出る。謝らなくては、弁解しなくてはと微かな理性がせり立てる一方で、勝手に口が動いて彼女を傷つけてしまう。

「わかったような口を利かないでくれ。君は孤独だったことがあるのか? 君のスタンドが目覚めた時、君の周りには承太郎が、ジョースターさんが、ホリィさんが居たんじゃないか……君には、最初ッから仲間がいたじゃあないか!」

真生子は幸福な娘だ──どんな時でもすぐに手を差し伸べてくれる兄や祖父が傍にいる。彼女を全て受け入れ、共に戦い守ろうとする仲間を、彼女は初めから持っていた。
花京院が持っていなかったものに、喉から手が出る程欲していた「心が通い合える仲間」に、真生子は生まれてから今までずっと囲まれている。それに彼女は気付いていない。自分があまりにも恵まれ、幸せだということに。

叫ぶように言い捨て、彼女の手を払い除けたところで、花京院は我に返った。
真生子は可哀想なほどに身を縮めていた。制服の、可愛らしいスカーフの前で、握り締めた手が小刻みに震えている。

「……ごめんなさい……」

白ばんだ顔は悲痛に歪み、緑色の瞳は今にも泣き出してしまいそうに揺らぐ。半開きになった唇からは、か細い呼吸が漏れ出している。
花京院は、自分の背筋を伝って奇妙なものが駆け上がってくるのを感じた。
彼女に今まで抱いていた素直な好意が、恋心が、淡い劣情が、腹の中のドス黒い感情とごちゃごちゃに混ぜ合わさって、やり場の無い想いがどうしようもなく込み上げてくる。俄かに激しくなった動悸を抑え込むように、自分の唇を引き結んだ。
冷たくなった指を伸ばし、真生子の頬にかかった髪に触れようとすると、彼女は怯えるように肩を震わせた。不安な感情と焦りが、濡れた目にちらついている。
それに気が付いて、花京院は我に返った。

「──…………すまない。言葉が過ぎた。君にそんな顔させるつもりじゃなかった……」

す、と髪に触れると、想像通りに柔らかで滑らかで、絡むことなく指の間を擦り抜けていった。彼女自身と同じだ。しなやかで、何者も拒むことなく受け入れようとする。
火がついたように湧き上がっていた怒りは忽ち小さくなり、代わりに、もう取り消せない自分の発言に対しての後悔が胸を焼く。
これじゃあ、妬んでいるだけだ。環境に恵まれていた彼女を。
手を離して俯く。「先に皆のところへ戻っていてくれ」と促した声色は余りにも情けなく、力無かった。

「…………花京院くんも……早く寝た方がいいよ。それじゃあ……おやすみなさい」

少しの沈黙の後、真生子はそう言って踵を返した。草を踏む柔らかい音、布が擦れる音が聞こえた後、目で振り返ると、テントの方へ戻っていく彼女の後ろ姿は小さく儚く、寂しげに見えた。
真生子は呆れただろうか。傷付いただろうか。怒っているだろうか。もう、嫌われてしまっただろうか。
今までの数十日で築いてきた信頼を、大切なものを、自分の手で、たったの一言二言で壊してしまうなんて。
濡れた草の上にしゃがみ込み、膝に乗せた腕に顔を押し付けて、花京院は暫く立ち上がれなかった。


◆◇◆


いつもと変わらない朝の時間が過ぎ、気怠い雰囲気の中で朝食を済ませ、仲間たちはそれぞれテントを畳んだり焚火の始末をしたりと出発の支度を進めている。
真生子の担当は食器の片付けだ。食事に使った皿をナプキンで拭い、水で軽く洗い流す。洗った皿を拭きながらぼんやりしている最中、

「おい、何だか様子が変だぜ」

と不意に後ろから声をかけられ、真生子は小さく跳ね上がった。動揺を態度には表さぬように努めながら振り返る。荷物を纏める作業が終わったらしい承太郎がいつの間にかそばにやってきていて、怪訝そうに顔を顰めていた。
「別に、いつもと変わらないよ」と返した声は、ほんの少し、僅かに掠れてしまった。綺麗になった皿を重ねて袋へ戻し、砂埃で薄汚れたランドクルーザーのトランクに運び入れる。もう一度ちらりと兄を見れば、彼は車の屋根の縁に手を掛けて寄り掛かりながら、やはり眉間に皺を寄せていた。

「体調も良いし……いつもと同じように元気だよ」
「ゆうべ何かあったのか」

少し背中を屈め、僅かに声をひそめて彼は訊いた。
「誰と」何かあったのか、とは彼は言わない。聞かずとも分かっているのだ。
承太郎は、妹が考えていた以上に、周りのことをよく見ている。
そのことに改めて気付かされると、真生子は途端にきまりが悪くなってしまい、いつもの癖で靴の爪先を擦り合わせながら兄から視線を外した。

「ええと……ちょっとね。わたし、無神経なことを言っちゃって……その」

ゴニョゴニョと言葉尻を濁すと、ほお、と承太郎が興味深そうに唸ったのが聞こえた。
ギクシャクしたくはないからと、普段通りに振舞っていたつもりだった。挨拶だって、花京院にもいつもの朝と同じようにしたつもりだし、彼も普通に返事をしてくれた。他にはこれといって会話らしい会話もなかったが、それは別段おかしなことでもないはずだ。だというのに、この兄には全てお見通しらしい。
承太郎が何か口を開きかけた時、もう出発だから車に乗るようにと祖父の声が飛んできて、結局会話はそこで中断させられてしまった。

舗装の荒い道を征くランクルは、ガタガタと不快に振動し続ける。いつものように後部座席の真ん中に座らせられた真生子は、祖父と兄の巨体に挟まれながら頭を垂れていた。
助手席に座る花京院の様子をちらりと窺う。彼は窓の外の景色を眺めているようだった。

花京院くんは呆れているのかしら。傷付いてしまったかしら。怒っているのかしら。
もう、嫌われてしまったかしら。

「分かっているよ」だなんて、やはり無神経過ぎただろうか。今までの旅の最中に見せてくれた彼の温かな優しさは、真生子の胸にちゃあんと届いているということを伝えたかっただけだったのに。
いくら後悔しても、こぼれた水は盆に戻せない。一度言ってしまったことは、もう取り消せない。ついつい肩が落ちてしまう。スカートの上に投げ出した両手を組み合わせながら、真生子は何も考えまいと窓の向こうに目を向けた。

「次の町で少し休憩しようぜ。そろそろ昼飯どきだしよ」

運転席でハンドルを握るポルナレフの提案に、車内の皆が賛成する。真生子は声を出して返事をする元気がなく、小さく頷いて同意した。



雑然としたストリートの彼方此方には露店が並び、昼食どきということもあってか、人でごった返しになっている。インドでは見慣れた光景だが、その中に入って進んでいくのには未だに慣れない。
日本ならば、混雑した道では、お互いがお互いに遠慮し合い、ぶつからないように気を遣いながら歩くのが常だが、国民性のマイペースなインドでは各々が行きたい方向に気ままに進むのが基本だ。図体の大きい承太郎やジョセフの背後にぴたりと張り付いていなければ、人の波に飲み込まれてすぐにはぐれそうだ。

「真生子、おじいちゃんと手を繋いでおくか?」
「だ、大丈夫」

ジョセフの提案をやんわりと断る。年の近い男の子がいる目の前だというのに、高校生にもなって祖父と手を繋ぐのはちょっぴり恥ずかしい。

と、前から歩いてきた男と勢いよくぶつかってしまい、真生子は後ろへよろめいた。倒れそうになりたたらを踏んだが、どうにか踏みとどまる。
その僅かな一瞬で、波に飲み込まれ、あっという間に仲間の姿を見失ってしまっていた。

「あっ……」

さあっと頭から血が引くのを感じた。いけない、こんな短時間ではぐれてしまうなんて。仲間に迷惑をかけてしまう。
慌てて人を掻き分け、後を追いかけようとした時、後ろからぐっと腕を引かれ、真生子の体は軽く仰け反った。

「こりゃあ珍しい。一人かい? 異国のお嬢さん」

そんな訛り混じりの英語に振り返ると、現地の住民らしい、頭にターバンを巻いた男たちが数人、薄ら笑いを浮かべながら、舐めるようにこちらを見つめていた。


◆◇◆


「真生子がいない」

真っ先に気が付いたのは花京院だった。
しんがりを歩いていたはずの彼女がいない。立ち止まって後ろを見回しても、あの黒いセーラー服を見つけることはできなかった。色は地味でも、あの格好は、この場所では遥かに目立つ筈なのに。

「はぐれたか」
「何! やっぱり手を繋いでおけばよかったかのう」

彼女の兄と祖父の呑気そうな声色をよそに、花京院は全身にどっと嫌な汗が滲んでくるのを感じた。
勝手に仲間から離れるような子ではない。ならば人混みに揉まれてはぐれたか、あるいは連れ去られたか。
なぜすぐ気が付けなかったのか。
昨日、気不味い出来事があってから、少しぎくしゃくしてしまっていたのを後悔する。もっと気を遣っていれば。そう思ってもあとの祭りだ。

「ぼくが探してきます」
「あ、待てよ、花京院──」
「いい、花京院に行かせよう」

引き止めようとするポルナレフの声を遮ったのは承太郎だった。振り返ると、一瞬、彼と視線がぶつかり、その深緑の目の奥の意図を読み取ってギクリとする。

「すぐ、戻ります」

ここで待ってるぞ、というジョセフの声を背に受けながら、花京院はハイエロファントを呼び出して道を引き返した。


◆◇◆


「離して!」
「くそッ、このガキ、大人しくしろ!」

人のいない路地の方へ引っ張り込まれ、腕を掴まれて体を引きずられながら、真生子は必死に足に力を込めて抵抗していた。
連中は、どうやら人攫いらしい。以前、アヴドゥルから注意するように言いつけられていたというのに、まんまと引っかかってしまった。
……人攫いとはいえ、一般人に乱暴なことはしたくなかったが、これではやむを得ない。

「うわあッ!」

スタンドを呼び出し、殴り掛かろうとしてきた男の足元を掬って転ばせる。そのまま他の男を振り切って逃げ出そうとするが、払ったはずの手を再び掴まれてしまう。仕方がなく、もう一人の男を殴って気を失わせようとした時だった。

ひゅうっと空を裂いて飛んできた翡翠の煌めきが、視界の端に入った。
ガツン、と鈍い音と同時に、真生子の腕を掴んでいた男が短い悲鳴をあげて後ろへ仰け反る。反動で離れた手を、後ろから伸びてきた腕がすかさず掴み取った。

「真生子!」

呼ばれ、真生子は振り返った。眉を険しく顰め、息を切らせた赤茶の髪の青年がそこに立っていた。

「か……」

花京院くん。
喉から漏れた声は気が抜けていて、きっと彼の耳にも間抜けに聞こえただろう。
戸惑っている間に、彼は「逃げるぞ」という短い一言と共に踵を返して走り出した。ぐいと引っ張られるまま、真生子は彼についていく。後ろの方で件の男たちの怒声が聞こえたが、すぐに騒めきに掻き消されて聞こえなくなってしまった。



「……大丈夫かい?」

しばらく走り続け、メインストリートに戻ってきてから、花京院はようやく足を止め、真生子を振り返って尋ねた。汗を滲ませ、険しい表情を浮かべた彼の声色は、走っていたせいか少し上擦っている。

「何か、その……変なことをされたりしなかったか?」

続く問いかけに言葉を返そうにも、息の上がっていた真生子は上手く声が出せない。やっとのことでした返事も、ぶんぶんと首を左右に振っただけだった。
そんな返答でも、花京院はひとまず安心したらしい。顰められていた眉はほっとしたように緩み、唇から薄い溜息が漏れる。

「そう……よかった」

そんな風にぽろりと漏れた小さな呟きは、真生子の耳にしっかり届いていた。
まだ手を繋いだままだったことに気付いて、真生子の頬には熱が集まってくる。彼の顔を見ていられなかった。少し俯いて自分の靴を見つめる。「真生子?」と怪訝そうに呼び掛けられて、真生子は引き結んでいた唇を開いた。

「やっぱり優しいね」
「え?」

花京院は、ポカンと気の抜けた表情を浮かべている。
真生子は心臓がぎゅっとするのを感じた。喉元まで出かかっている言葉を、口にするかしまいか、数秒の間考えた。
けれど、今、ここで言わなくては。今、二人きりのときに言わなくては。
意を決して、震える唇を小さく開いた。

「きのうは、無神経なことを言ってごめんなさい……でもやっぱり、花京院くんは優しい人だよ。わたしが困ってるとき、緊張してるとき、怖いと思ってるとき……助けてくれる。それはスタンドとか、そういうのは関係なくって……ううん、スタンドとか全てひっくるめた、花京院くん自身のほんとうの優しさだと、わたしは思うんだ」

そんな途切れ途切れな、下手くそな言葉を、花京院は黙って聞いている。

「わたしは、花京院くんのそういうところが……」

そういうところが、好き。
と続けようとして、真生子はハッと我に返ると慌てて口を噤んだ。

花京院くんの、そういうところが、好き。

喉から自然と滑り出そうになったその言葉に、改めて自分の気持ちに気付かされた。
花京院くんの、優しいところが好きだ。
困っている時、緊張している時、怖いと思っている時、必ず手を差し伸べてくれる花京院くんが、好きだ。

きっと今、林檎みたいに頬が真っ赤になっているに違いない。照れくささと恥ずかしさと、嫌われたらどうしようという根拠の無い不安が胸をぐるぐると渦巻く。繋いだままの手にも、じわじわと汗が滲んでくる。
花京院はいつまで経っても黙ったままだ。真生子はドキドキしながら伏せていた目線を上げ、恐る恐る様子を盗み見た。

すると彼は、真生子が予想もしていなかったような反応を見せていた。

目は驚きのために少し見開かれ、耳は端まで真っ赤に染まっている。
真生子はあんぐりと口を開けそうになった。手に汗を掻いているのは、どうやら自分だけではなかったらしい。花京院はもどかしそうに指を動かし、真生子の手を握り直した。

「そう、かな」

そう言うと、彼は少し視線をそらし、口元を隠すように手で覆った。
真生子は、うん、と曖昧な返事をして茶を濁し、また下を向いてしまう。
心臓がドキドキして煩いくらいだ。目の前の彼に鼓動が聞こえてしまうのではないかと、妙な不安さえ頭の中に浮ぶ。

「こっちこそ、昨日は君を傷つけてすまなかった」
「う、ううん、そんなことは……」
「……戻ろうか。きっとジョースターさんたちが心配しているよ」
「う、うん」

花京院はそう言って踵を返してしまった。手は、まだ繋いだままだ。てっきり、皆のところへ戻る前に離されてしまうかと思っていた。もう少し手を繋いでいたいと無意識に考えていた真生子は、嬉しくて恥ずかしくて、胸の奥がきゅんと苦しくなって仕方がなくなってしまう。

「ありがとう」

と、不意に彼が言葉を紡いだので、真生子は顔を上げた。斜め後ろから見る花京院の耳は、先ほどと変わらず縁まで赤く染まっている。

「うん、花京院くん」

顔にのぼった熱は、まだ振り払うことができそうになかった。


◆◇◆


花京院くんの、そういうところが……

頭の中で何度も反覆する言葉が、胸の鼓動を速くする。続きは何て言おうとしたのだろう──だなんて考えるのは野暮だ。わかっている。彼女が自分を好きなことは、とうに気付いている。

真生子の純真さは時に残酷だ。けれどその思いは、真っ直ぐな心は、痛みを掻き分けて花京院の胸を打った。
スタンドも辛い過去も、何もかも引っ括めて、ひたむきに花京院自身を受け入れようとしてくれる。
その温かさが、優しさが何よりも尊いものに思えた。分かり合える仲間。自分をほんとうに理解してくれる存在に、十七年かかってようやく出逢えたのかもしれない。

(ぼくも、君の、そういうところが)

喉から出かかったその言葉を、ついに音にすることは出来なかったけれど、時が来ればちゃんと、自分から想いを伝えよう。
まだ少し、勇気と時間が必要だ。