どんどん、と強烈な衝撃は、最早ノックというよりは扉に拳を打ち付けていると言った方が適切かもしれない。
ポルナレフはわざと呑気な声で返事を返し、ベッドから立ち上がるとドアスコープから廊下を覗き込んだ。帽子を目深に被り、「ガクラン」という学生服に身を包んだ男が、扉の前にぬっと突っ立っている。
「よぉ、承太郎。どうかしたか?」
「あいつが来てねえか」
開口一番にそう言うものだから、思わず苦笑したくなってしまう。それを堪え、「あいつ? 誰も来てないぞ」ととぼけた調子で切り返すと、承太郎はそうかと気の無い返事をしてさっさと踵を返してしまった。他の仲間の部屋を当たるつもりのようだ。
扉を閉め、ポルナレフはわざとらしい溜息をついた。
「あ~あ、後でどやされちまうぜ」
ベッドルームの隅っこに座り込み、身を縮めている少女を振り返る。
自分の膝に顔を埋めている彼女の姿に、ポルナレフの胸にはたちまち同情とお節介の気持ちが湧き上がってきた。
「真生子。喧嘩でもしたのか?」
努めて優しく語り掛けても、彼女は頭を振るばかりで口を開こうとしなかった。
数分前、部屋に入れてほしいと言って涙目でドアを叩いた真生子に、ポルナレフは大変慌てた。今日は彼女は承太郎と同室のはずだが、彼が探しているあたり、兄妹間で何かあったのは間違いない。
時折、三年前に亡くした妹の姿を、彼女に重ね合わせてしまう事がある。
陽気で明るく、笑顔の絶えない少女だったシェリーとは、真生子は少しタイプが異なるものの、承太郎と微笑ましい遣り取りをしている彼女を見ると、妹と一緒に暮らしていた頃の懐かしい気持ちが呼び起こされた。彼女の方もそれを知っているからか、ポルナレフを兄貴分のように思っている節があるらしい。
他の者、彼女の祖父や花京院ではなく、ポルナレフに助けを求めに来たのはそういう理由があるのかもしれない、と自己解釈していた。
「あのね」
心を開くまで根気強く待つと、真生子は長い沈黙の後にようやく小さな声で切り出した。
「浮かれてる、って言われたの」
「はあ、そりゃ何のことだ」
そこからまた真生子は長い時間黙った。何か慎重に言葉を選別しているらしかった。
「浮かれてるように見えるって」
それだけでは承太郎が何を咎めているのかサッパリ分からなかった。こんな旅の最中だというのに、妹が何だか楽しそうな雰囲気を醸し出しているのが気に食わない、ということだろうか。「浮かれてるってお前が?」とポルナレフが間の抜けた声で訊くと、真生子はまた膝に顔を押し付けながらも肯定した。
「旅を楽しむなってことか?」
「ちがうの」
くぐもった声は震えている。それを哀れに思いながらも、ポルナレフにはほんのひとつだけ、彼女の言っていることに心当たりがあった。
真生子は、とある人物に恋をしている。
香港からジョースター一行に同行するようになったポルナレフは、真生子が彼に対して妙にソワソワした素振りを見せていることにすぐ気付いていた。いかにも初心といった様子で、男慣れしていなさそうな彼女のことだから、ただ単に緊張しているのだろうと思っていたが、どうにも違うようだ。
恋や愛と呼べる程では無くとも、「気になっている」という位には気を揉んでいるらしい、というのは見ていてすぐに分かる。ポルナレフはそれを微笑ましいものと見なしていたが、どうやら承太郎はそうではないらしい。
「別に、浮かれてるって程じゃあねーと思うけどな、おれは」
ベッドの端にどっかりと腰を下ろす。彼女の今までの素行を考えてみるが、そんな些細なものが原因で一行の行動に支障をきたしたことは一度も無い。
「お兄ちゃんの言ってることは分かるの」
「分かるって?」
膝を抱えて体育座りをした真生子は、普段よりもずっとずっと小さく、頼りなげに見えた。
「だって……こうしてる今も、お母さんが……わたしたちは急がなくちゃならないのに……」
時間がないのに、と呟いて真生子は鼻を啜った。
彼らの旅は、ジョセフの娘、つまり承太郎と真生子の母のスタンドが暴走状態に陥ったことがきっかけに始まったのだという。DIOの血縁の呪縛により強制的に芽生えたそれを制御出来ず、彼女は体を自身のスタンドに蝕まれており、あと数十日程の猶予しか残されていない。その命が尽きる前にカイロへ辿り着き、DIOを倒さねばならない。
ジョセフも承太郎も真生子も、口に出しはしないものの、常日頃から焦燥感にかられているのだということは、ポルナレフにも分かっていた。
「もう、よくわからない……」
メソメソし続けながらそう吐き出す真生子は、ポルナレフよりも一回り近く年下の少女なのだということを改めて思い出す。自分の母の命を背負って戦う、というのには、彼女はまだ余りにも幼過ぎやしないだろうか。
「承太郎の気持ちも分からんでもないが、それじゃ旅の間ずっと葬式みたいな顔で過ごせってことか? そりゃおかしいだろ! 士気ってモンも大事なんだよ」
ポルナレフはポケットに財布があるのを確かめてから、ビョンとベッドから跳ね起きた。
「よし! 真生子、気分転換に街に出てお茶でもしようぜ。まだ晩飯まで時間があるしよ」
「……でもわたし、今お財布持ってないし……」
「馬鹿、奢りに決まってんだろ。デートだぜ、デート」
おにいさんに任せなさい! と胸を叩くと、真生子はようやく顔を上げ、泣き腫らした目を細めて笑い、頷いた。
◆◇◆
「じじい、真生子が来てねえか」
怪訝そうな顔で首を横に振る祖父に、承太郎は溜め息を漏らした。自分に割り与えられた場所から近い順に、ポルナレフ、花京院の部屋を訪れたが、どちらにも妹は居なかった。ジョセフの部屋にも、何となく居ないのだろうと分かっていた。ポルナレフか花京院のどちらかが匿っているに違いなかったが、おそらく前者だろう。
承太郎は無遠慮に部屋に上がり込み、ベッドにどっと腰を下ろした。
「どうかしたのか、承太郎」
「……ちょいと喧嘩みてーなもんだ」
喧嘩!? と何故か祖父は大袈裟に驚いて見せた。「お前達も喧嘩なんてもんをするんじゃなァ」とどことなく楽しそうに言うので、つい苛ついてしまう。
「あいつはすぐ泣くから、その後機嫌を取るのが面倒くせえんだ」
「泣かせたのか! なんで喧嘩なんかしたんじゃ」
「最近あいつが妙に浮かれてぼうっとしてるからだ!」
強い口調で言い返した孫に、ジョセフは一瞬狼狽した。口に出してからはっとするが、もう遅い。バツが悪くなり、学帽を引き下ろす。祖父は呆れたような長い溜め息をつきながら、窓際のソファに腰掛けた。
豊かに蓄えた顎髭を撫でつつ、ジョセフは何か思案している。
「真生子は、花京院をえらく気に入っとるからのお」
花京院、と聞いて承太郎は苦々しい気持ちになってしまう。この古老には、孫の考えなど何でもお見通しらしい。フンと鼻を鳴らすと、ジョセフは愉快と言いたげに声を出して笑った。
「好きになるのは構わねえが、浮かれてるのも大概にしろ」
そう警めた時の、真生子のあの表情が脳裏に蘇ってくる。驚きの中に混じる焦りの色と、寂しげな瞳、辛そうに顰められた眉。ぎゅっと噛み締めた唇に、承太郎の心の中に僅かな後悔の念が浮かぶ。
「好きになってなんかない」
「構わねえと言ってるだろ。だが、今がどんな時なのか忘れた訳じゃねーだろうな」
「わたしだってそのくらい分かってる!」
そう言って飛び出してしまった彼女を、咄嗟に追い掛けることは出来なかった。
「少しくらいは良いじゃあないか、潤いも必要だ。焦るばかりでも良いことはない」
祖父の声に、承太郎は回想から意識を引き戻された。宥められても尚、不服そうな様子の孫にジョセフは苦笑する。
「わしはな、承太郎。この旅をただ辛いだけのものにはしたくないんじゃよ」
彼は立ち上がると窓際へ寄った。ガラス越しに見える街並みはうっすらと青い闇に沈み始めている。いつの間にか、今日もまた夜が訪れようとしていた。
「お前達が大人になった時、この旅のことを思い出して、辛いこともあったが楽しかった、と言えるような旅にして欲しいんじゃ」
承太郎は黙って、祖父をじっと見つめていた。いつも仲間達を先導する頼もしい背中は、少し淋しそうに見える。若い頃の、イタリアでの波紋の修行とやらを思い出しているのだろう、と承太郎は何故か確信めいた。
そうかよ、とだけボソリと呟き、立ち上がると妹を捜す為に廊下へ出た。
◆◇◆
ホテルに程近いカフェで「恋バナ」に勤しんでいるうちに、空はすっかり群青色に塗り替えられている。まともに恋をしたことなど無いという彼女に、愛のなんたるかとその重要性を説き、ポルナレフが今までどうやって幾人もの女の子をナンパしてきたか、という主題からかなり外れた武勇伝を散々語り尽くした頃には、真生子はすっかり落ち着いていた。
「あ、やべッ」
ホテルの入り口を潜った途端、ポルナレフは縮み上がった。ロビーのエレベーターの側で仁王立ちし、二メートル近い長身から強烈な存在感を放っている青年に、鋭く睨み付けられた為である。
「やっぱりお前か、ポルナレフ」
「あ、あー、承太郎、嘘ついたのは悪かった。けどな、真生子はずっと泣いてたんだぜ? お前の……」
「分かってる」
言葉を遮られ、ポルナレフは黙り込んだ。舌打ち混じりの台詞ではあったが、深緑の瞳は暗く沈み込み、発言を後悔しているらしいことが分かる。先程真生子を探し回っていたのも、謝るつもりだったのだろう。それを最初から分かっていたのに、嘘をついて誤魔化し、彼女をホテルから連れ出した事については申し訳なく思う。
「真生子」
ポルナレフの背中に隠れていた彼の妹は、きまりが悪そうに靴のつま先を擦り合わせていた。
「おれが悪かった」
ジジイに焦り過ぎだと忠告された、と彼は言い、帽子を被り直した。その、普段はあまり見せない素直な態度に、ポルナレフはついニヤついてしまう。真生子はじっと兄の様子を伺った後、ううん、と首を小さく横に振った。彼女が恐る恐る寄ると、承太郎はぽんと妹の頭を撫でる。案外、アッサリと仲直り出来たらしい。何だか拍子抜けしてしまう程だ。
と、チンッという子気味の良い音と共に一階に到着したエレベーターの中から、よく見慣れた顔が現れた。
「おお、お前達、こんなところに居たのか。夕食は外のレストランで食べよう」
「先にロビーに集まってたんですね」
ジョセフと彼に連れられた花京院がエレベーターから降りてくる。それに気付いた真生子はさり気なく承太郎の陰に移動した。「恋バナ」を思い出したようで、下を向いて顔を真っ赤に染めている。
それにしても、とポルナレフはついつい笑みを浮かべてしまう。こんな分かりやすい態度を取っていれば、誰だって勘付いてしまうというものだ。しかし、だからこそ、からかい甲斐がある。
「何、顔赤くしてんだ~? 真生子」
わざと大きな声で言うと、彼女は肘で軽く脇腹をどついてくる。後ろの方で承太郎が例の口癖を漏らしたのが聞こえた。