医師が彼の目を覆う包帯を慎重に外してゆく。久々に外気に晒された花京院の瞼には、痛々しい赤い傷跡が残っている。それを申し訳なく思いながら、真生子はその光景を見守っていた。
震える瞼がゆっくりと持ち上げられる。睫毛の間から覗いた鳶色は、以前と同じ強い意志を宿して輝いていた。
「少し、ぼやけて見えますが……大丈夫です」
何度か瞬きを繰り返してから、花京院は部屋の隅に立っている真生子の姿を見つけた。目が合うと、閑やかに微笑みかけてくる。その様子を見て、真生子はようやく胸を撫で下ろした。
包帯を外して一晩様子を見て、朝にもう一度診察して問題が無ければ治療は終了だと、財団の医師は言った。そうして一先ず退院した花京院は、真生子が街で買ってきたサングラスを掛け、遠い目でナイル川を眺めている。ホテルへ向かう道の途中だった。
「明日の早朝、すぐにヘリでカイロへ向かうそうだよ」
嬉しそうな寂しそうな、複雑な声色でそう言った彼の、端正な横顔をしばらく見上げた後、真生子もその視線の先を追いかけた。
街は夕闇に沈み、既に街灯が点々と光り始めている。空の淵は蜜柑の皮のような明るい色に染まり、そこから天へ向かって薄紫と群青の美しいグラデーションへ変化していた。その空の色を溶かし込んだ水面がユラユラと光り輝いているのを見ながら、真生子は川沿いの柵の手摺に手を突いた。二人で暫し立ち止まり、肩を寄せて川を眺めていた。
「やっとだね」
手摺を握り締めていると、花京院はそっと大きな手を重ね合わせてくる。安心させるように真生子の手の甲を撫でるその指を、愛おしいと思った。どちらともなく手を繋ぎながら、ゆっくりと歩き始めた。
ホテルへ着くと、真生子がずっと宿泊していたツインルームに、花京院がそのまま追加される形で泊まる事になっていた。真生子が一週間ずっと花京院に寄り添っていた事を知った財団職員が、余計な気を回したらしい。旅の最中、宿に泊まる際には必ず承太郎かジョセフのどちらかと同室にさせられていたため、彼と二人で同じ部屋で眠るなどということはあり得なかった。
「何を見てるの?」
振り返ると、シャワーを浴び終わった花京院が髪を拭いている。彼より先に風呂に入り体を綺麗にした真生子は、何でも無いと答えてからカーテンを閉じた。窓際に立って夜の街をぼうっと眺めていたが、ただ気恥ずかしさを誤魔化すための意味のない行為だった。
「体が冷えてしまうよ」
彼はベッドに腰掛け、トンと隣を叩いて見せる。促されるがままに真生子は彼の横に座った。
骨張った、男性らしい手にそっと触れると、優しく握り返してくる。それだけで真生子の胸はいっぱいに満たされ、あたたかい気持ちが溢れてしまう。花京院を見上げる。真生子の大好きな、穏やかな茶色の目に見詰められていた。
「明日……一緒に来るんだろう?」
それは問い掛けではなく確認の言葉だった。
迷うことなく頷いた真生子に、彼はきゅっと唇を結んで、複雑そうに眉を顰める。自分で確かめておいてそんな顔をする彼に、真生子は困ったように微笑んでしまう。
「……この一週間、楽しかった。花京院くんと一緒にいられて、」
「……典明」
「え?」
きょとんとした真生子に、彼はもう一度ゆっくり繰り返した。
「典明、って呼んで欲しい」
手を握り締められ、真摯に見据えられてぼうっと顔が熱くなる。唾を飲み込んでから、一息置き、辿々しく名前を紡いだ。
「典明、くん」
「『くん』は要らないよ」
「……のりあき」
僅かに上擦った声で口にすると、彼は熱っぽい目をして真生子を呼んだ。顔が近付いてくる。真生子は反射的にぎゅっと目を瞑った。
唇にふわっと柔らかいものが押し付けられて、直ぐに離れて行った。
薄っすらと目を開けると、花京院は耳の淵まで真っ赤に染めていた。
「………………レモンの味、しなかった」
「れ……レモン?」
「ファーストキスは、レモンの味がするっ、て、」
言葉を遮るように唇を塞がれ、真生子は体を硬直させた。唇を割って入り込んで来た舌に驚き、彼の胸に手を突くと、花京院はそれを掴んで優しく避けてしまう。彼が顔を押し付ける重みに負けて仰け反ると、背中に手を回されて体を倒された。たどたどしく伸ばされた舌は熱く、真生子をどうにかして絡め取ろうと口内を探る。
そうしてモゴモゴとぎこちないキスを続けながら薄目を開けると、驚いた事に花京院は目を開けて真生子の反応を見ていた。見られていた。顔から湯気が出そうな程恥ずかしい。漸く解放された頃には、真生子は茹で蛸のようになっていた。
「……レモンの味はした?」
そんなものは必死過ぎて分かるはずも無い。頭がクラクラする。心臓が弾けそうなほど速く動いている。ふるふると首を動かすと彼は苦笑した。
「あの……真生子」
「かきょういんくん、」
「典明」
「の、典明……」
「真生子。その、なんて言ったらいいか……あの、」
頭の横に手を突き、真生子に覆い被さったまま、花京院は言い淀んだ。
恥ずかしそうに細められた目の、縦に二本走る傷口にそっと手を伸ばす。触れては痛いだろうから、と瞼の傷の近くに指を置いてなぞるように触れた。
「うん」
ほんのりと微笑みかける。彼はそれを合意の合図と見なしたらしかった。噛み付くようなキスを振る舞われ、真生子は誘われるまま彼に溺れていった。
◆◇◆
この人を守りたい。
大切な人を、仲間を、母を護りたい。
そのためには、やはり前進するしか道は残されていないのだ。例え死の危険と犠牲を伴い、仲間が、自分が傷付くかもしれなくとも、真生子は彼らと共に進み続けることに決めた。立ち止まるのは今日でお終いだ。不安と恐怖を乗り越え、自分自身と仲間たちを信じること、いま出来ることを精一杯努めることが、自分に与えられた使命なのだから。
上り始めたばかりの太陽が放つ象牙色の光が、カーテンの開け放たれた窓から差し込む。シャワーを浴び直した真生子の髪はすっかり乾き、絡むことなくすんなりと櫛を通した。着慣れた制服に袖を通し、鏡の前でスカーフを整える。毎日繰り返し続けた手慣れた作業を終え、鏡の中の自分自身の眼を見詰める。喪った光を取り戻し、真っ直ぐに前を見据えるエメラルドが、朝日を反射していた。
鏡に触れる自分の手には、所々に薄っすらと、擦り傷や切り傷、ミミズ腫れが治癒した痕が残っている。それを一頻り眺めてから、真生子は振り返った。すっかり支度を整えた典明が、真生子の準備が終わるのを待っている。彼は立ち上がり、しっかりとサングラスを掛けた。
「さ、行こう、真生子。大丈夫。君には皆がついている」
差し出された手を、迷うことなく握り締め、真生子は頷いた。
もう、大丈夫。
彼の温かい手を固く握り締めながら、真生子は足を踏み出した。
──カイロへ。
旅は、終わりを迎えようとしていた。