柔らかなフリルのついたワンピース。サテンのリボン、コットンのレース。艶やかなエナメルの靴。
子供向けの、ちょっぴり高級な洋服屋で、幼い真生子は鏡の前に立たされ、ああでもないこうでもないと、洋服を取っ替え引っ替えされている。
目まぐるしく入れ替わる色取り取りの可愛らしい洋服たちに、真生子は戸惑いながらも、絵本の中のお姫様になったような気分だった。
……あのとき、服を買ってくれたのは誰だったっけ。
真生子の意識は、まどろみの中から急激に引き戻された。
乾燥した喉がザラつく不快な感覚が、覚醒してくるにつれて蘇ってくる。
膝の上に投げ出された自分の手が視界に入る。夢の中で見た、幼い子どものふくふくした手ではない。あの頃よりもスラリと伸びて、でも大人のそれというには少し丸っこい指先は荒れてカサついている。体を覆っているのも、新品の綺麗な服ではなく、すっかり薄汚れてところどころほつれたセーラー服だ。
可愛い服も、美しい靴も、ここにはない。
ゆっくりと周囲を見回す。
真生子は車の後部座席の真ん中に座っている。運転しているのは祖父のジョセフだ。助手席にはポルナレフ。右隣に座っているのは兄の承太郎、左隣には花京院。居眠りしていたり、遠い目で窓の外を見つめていたりと、みんなそれぞれ疲れた様子だ。
寝起きでぼんやりしたままの頭で、アヴドゥルが居ないことを寂しく思った。カルカッタで重傷を負った彼は、治療のために旅から離脱してしまった。治癒能力を持つ真生子のスタンドで応急処置をしたものの、傷が骨まで達していたため、SPW財団の医師に治療を任せることになったのだ。
スタンド能力が発現して以降、治癒の力は少しずつ成長しているが、命に関わるような重傷を完治させることはできないでいた。それを歯痒く思うが、今はただ前を向いて進むしかない。
……それにしても、敵を欺くためとはいえ、アヴドゥルが生きていることをポルナレフだけに知らせないというのは、いくらなんでも酷いんじゃあないかと思うが。アヴドゥル本人の意向でもあるので、その通りにするけれど。
いつの間にか、車は町の中を走っている。砂や荒れ果てた岩ばかりの殺風景な景色は、真生子が意識を飛ばしている間にすっかり通り過ぎてしまったようだ。
やがて車は、周囲の建物より少し立派な作りのホテルの駐車場で停車した。ジョセフが後部座席を振り返り、「今日はここに泊まろう」と皆に向かって言った。
真生子は軋む体を動かし、承太郎に続いて車を降りた。眠っていたせいもあってか、少し頭がフラフラする。眠気を飛ばそうと軽く首を振った。
「今日はマトモなベッドで眠れそうじゃな」
と運転席から出てきた祖父が笑いかけてくる。真生子は薄い笑みを作って応えた。
観光客向けのホテルのロビーは、数人の客とボーイがいるのみで閑散としている。
ジョセフはサッサと受付を済ませると、二人部屋と三人部屋をひとつずつ借りたと皆に報告した。
「真生子、今日はわしと同じ部屋でいいか?」
「うん」
頷くと、ジョセフは満足そうにグリグリと頭を撫で回してきた。
一行の紅一点である真生子は、祖父の計らいにより、承太郎かジョセフのどちらかと同じ部屋で寝泊まりすることが多い。最近は雑魚寝や野宿、あるいは車中泊が続いていて、兄の近くで眠ることが多かったが、たまには祖父と二人でゆっくり話すのも良いものだろう。
「夕食は二〇時からだそうじゃ。皆それまで自由に過ごすといい」
「とりあえず、シャワーを浴びたいですね……髪が砂まみれだ」
花京院が癖のある前髪を指で払いながらそう言うので、真生子も同じように自分の頭に触れてみた。ざらりとした砂の感触が煩わしくて、つい顔を顰めてしまう。
「真生子」
他の三人が部屋へ向かう背中をぼうっと見送っていると、ジョセフが後ろからこっそり耳打ちしてきた。
「風呂に入ったら、少しわしと出掛けんか?」
「買い出し?」
「まあ、そうじゃな。いい気分転換になるだろう」
「うん、わかった。すぐ支度するね」
正直、疲れていて身体が重たく、部屋で休んでいたいという気持ちもあったが、外へ繰り出して町の雰囲気を味わうのもいいかもしれない。
それに、一人で横になっていると、日本にいる母の事を思い出さずにはいられなくなるのだ。母に思いを馳せ、DIOの刺客がいつどこから襲ってくるか分からないという緊張感に常に包まれながら夜を過ごすことに、真生子は疲れていた。
そんな弱い部分を仲間に見せたくなくて、普段は澄ました顔で過ごすようにしているけれど。
それを祖父は見抜いていて、孫を気遣っているのかもしれない。嬉しい気持ちもある反面、ジョセフに対して申し訳なさを感じずにいられなかった。
◆◇◆
日が沈み始めた頃、全身の砂をサッパリ綺麗に落としたジョセフと真生子は、他のメンバーから託された買い物リストを手に町を歩いていた。
傷薬や食料、乾電池などの消耗品だけでなく、新しいヒジャブやパジャマなども購入し、すっかり両手が買い物袋で塞がってしまった。
リストの項目をあらかた消化し終え、あとはもうホテルに戻るだけ、という頃合いになって、ジョセフはある店の前で立ち止まった。
「どうしたの? おじいちゃん」
「ちょっと寄っていかんか?」
ニッと笑って、祖父は親指でショーウィンドウの中を指す。
女性向けのブティックのようだ。真生子は首を傾げた。
「……誰に何を頼まれたの?」
「誰にもなーんにも頼まれとらんよ。さあ、おいで」
ポンと肩を押されて促され、真生子はしぶしぶ店の入り口をくぐった。
色とりどりの洋服、繊細な刺繍が施されたショール、パールやガラスのネックレス。その他の様々なキラキラしたもので埋め尽くされた店内。
体の汚れは落としたとはいえ、相変わらず綺麗とは言い難い状態のセーラー服を着ている真生子は、どう考えても場違いだった。
あまりに居心地が悪く、おどおどしたまま突っ立っていると、ジョセフに肩を抱かれて店の奥へ連れて行かれた。
「このわしの孫に似合う服を見繕ってくれんかの」
「え? え?」
真生子は目を丸くした。
ニコニコした女性店員が何人も寄ってくる。真生子の手から荷物を取り上げ、鏡の前に立たせると、店中から色々な服を持ってきて取っ替え引っ替えし始めた。
それをポカンとしながら他人事のように見ていると、鏡の中のジョセフと視線がかち合った。
そこでようやく、車に揺られながら見ていた夢のことを思い出した。
まだ小学校に入学する前の幼い真生子を連れて、今より少し若い祖父は洋服を買いに行ってくれた。
フリルのついたワンピースを着た真生子に、ジョセフはこれ以上ないというほどの最大の誉め言葉を送り、抱き締め、頬にキスしてくれたのだ。
やがて真生子は試着室へ押し込められ、店員に手渡された服を着るように指示された。
子供の頃の記憶にあるような、ふりふりした可愛らしい服とは違う。なめらかな布地で、裾に光沢のある糸で細やかな刺繍が施された、上品なワンピースだ。袖を通せば、上質な生地が肌にするすると心地よく馴染む。
「真生子、出来たなら早く見せんか」
ぼーっと鏡の中の自分に見とれていると、カーテンの向こうから祖父の声が飛んできて、慌てて真生子は試着室から飛び出した。
「あの、おじいちゃん。これはどういう……」
「おお、似合っとるぞ。すまんが髪飾りと靴も付けてくれんか」
「おじいちゃんっ、わたし、そんな……」
店員に催促され、鏡台の前に座らせられた。髪の毛を結われ、白い花がついたリボンを飾られる。靴もストラップ付きのつやつやしたミュールに履き替えさせられた。
真生子が自身のあまりの変わりように唖然としている間に、祖父はサッサと代金を支払うと、店員に礼を言い、孫の手を引いて店を後にした。
「お、おじいちゃん!」
「とっても可愛いぞ。本当にホリィによく似てきたのう」
「ど、どうして急に」
狼狽えたままの真生子が問いかけると、祖父は前に向き直って帽子を深く被り直した。
斜め後ろから見る彼の顔は、なぜだか少し悲しげに見える。真生子は口を噤んで、荷物に顔を隠したジョセフが次の言葉を吐くのを待った。
「真生子。この旅は辛いか?」
真生子はしばらく黙った後、小さな声で「そうだね」と返した。
「ママのことを考えると、心配で、苦しくて……」
「そうじゃな。わしや承太郎も同じ気持ちじゃ」
だがな、とジョセフは真生子を振り返った。
「日本へ帰ってから、ホリィやお前のお父さんに『こんな楽しいこともあった』と笑顔で話してやれるような、そんな思い出が旅の中にあったっていいじゃろう」
「……」
「ホリィのことを考え込んでしまうのはわかる。特にお前は、他人の痛みを自分の痛みと同じように考えることができる優しい娘じゃ。
しかしそう下を向いて落ち込んでばかりいるのは勿体無いぞ。それに、可愛い孫が辛そうにしているのを見ていると、わしも悲しくなるんじゃよ」
ジョセフは荷物を持っていないほうの手の親指と人差し指で、自分の口角をグイッと押し上げ、笑顔を作って見せた。
「久々に女の子らしく可愛い格好をしたんじゃ。もっと楽しそうにせんか!」
口元から手を離し、ニカッと明るく笑ってみせると、祖父は真生子の肩をポンと叩いて励ました。
優しい言葉がじんと心に染み渡り、思わず視界が滲んでしまう。涙がこぼれてしまわないようにきゅっと目を瞑る。それからもう一度ジョセフを見上げ、真生子はおそらく数日ぶりに、心からの笑顔を浮かべた。
「ありがとう……おじいちゃん。嬉しい」
ジョセフは頷いて、満足げに真生子の頭を撫で回した。
◆◇◆
夕食の席は俄かに騒がしくなった。
ジョセフが甲斐甲斐しく手を引きながらレストランへ連れてきた真生子は、どういうわけか、いつもの真面目そうな制服姿ではない。彼女によく似合う色のワンピースに着替え、髪の毛も綺麗に結っている。
制服か寝巻き以外の服を身に付けている彼女を目にするのは初めてのことで、花京院は動揺が隠せなかった。
照れ臭そうにテーブルへやってきた真生子を、ポルナレフが椅子を引いて迎え入れた。承太郎は特に何も言いはしないものの、珍しいものを見るような視線を妹に向かって投げている。
「Mon dieu(おいおい)! 急にどうしちまったんだ? すっかり別嬪さんじゃあねーか!」
「ありがとう。おじいちゃんが服屋さんに連れてってくれて……」
「普段もじゅうぶん可愛らしいが、女の子はオシャレをするとより美しく光り輝くってもんだ。この服はジョースターさんの見立てかい? よーく似合ってるぜ」
愛の国の軟派男から贈られる惜しみない賛辞に、真生子は照れ照れしつつも嬉しそうに微笑んでいる。
いつもの物憂げで悲しそうな表情はどこにも無い。久々のオシャレを楽しんでいる、十六歳の普通の女の子だ。最近は特に辛そうな顔をしていることが多かったから、今の彼女はとりわけ、ポルナレフが言った通りに輝いて見えた。
「そう思うよな? 花京院」
不意に話を振られ、花京院は我に返った。
彼女には見えない位置から、ポルナレフが声を出さずに口を動かして「褒めろ」と伝えてくる。
余計なお世話だ。わざわざ指示されなくたって何か言うつもりだった。
斜め前の席に座った真生子と目が合う。彼女は恥ずかしそうに、ちょっぴり不安げに眉を八の字にした。
花京院は唾を飲み込み、意を決して唇を開いた。
「ああ、すごく可愛いよ」
あまり大げさでなく、素っ気無いわけでもなく、ごくごく自然に。
そんなイメージで、さらりと告げたつもりだった。
けれど次の瞬間には、真生子は自分の顔を耳たぶまで真っ赤っかに染め上げていた。
ポルナレフが口にした気の利いた言葉よりも、よほど味気なかったはずなのに……。
照れさせてしまうことは想定していたが、あまりにもいじらしい反応を目の当たりにすると、なぜだか言った側まで気恥ずかしくなってしまい、自分の頬も熱くなってきた。
黙りこくって俯いてしまった花京院と真生子を、ジョセフとポルナレフはニヤつきながら眺めている。承太郎が学帽の鍔を少しだけ引き下げて、いつもの口癖を呟いたのが聞こえた。