「静かに寝てろッ!!」
背後から突き刺すように飛んできた怒声に、真生子はびくりと肩を震わせた。
聞いたことのない声色だった。絡んできた不良を威嚇する声でも、取り巻きの女の子たちを払い除ける為に使う声でもない。焦燥と、それに伴う恐怖が、喉に引っかかるような低音の裏側に押し隠されていた。
布団から抜け出ようとしていた母は、驚いて身を固くしている。そのうなじの向こう、背中と服の間から、蠢く植物の蔦がチラリと覗いていた。布団の傍に膝をついていた真生子は俯き、スカートを握りしめる手に僅かに力を込めた。
「……黙ってはやく治しゃあいいんだ」
そう言って取り繕う兄の声は沈み込んでいる。誤魔化すように帽子の鍔を引き下げる気配がした。
「……ご飯……ご飯はわたしが作るから……ママは寝てていいよ」
下を向いたまま、真生子はぎこちなく笑みを浮かべようとしたが、絞り出した声が動揺に震えるのを抑えることが出来なかった。
ふふっと可愛らしい笑い声に顔を上げると、いつもと変わらない優しい微笑みを浮かべた母が、布団の中へ潜り込み直していた。
「そうね、病気になるとみんなスゴク優しいんだもん……たまには風邪もいいかもね」
そう言った途端、ホリィはふっと力を失い枕に沈み込んだ。隣で見守っていたジョセフが、ぐったりした様子の彼女の額に慌てて手をやる。「なんて高熱だ」と彼は唸り、顔を顰めながら、布団を丁寧に掛け直してやった。
「今の態度でわかった……娘は自分の背中のスタンドに気付いている。逆にわしらにスタンドのことを隠そうとしていた……わしらに心配かけまいとしていた」
そこまで聞いて、真生子は黙って立ち上がった。
襖の脇に立っていた承太郎の横をすり抜ける。祖父が呼ぶ声を無視し、渡り廊下を一目散に駆け抜けた。
あのまま部屋に居られなかった。今の状況の何もかもが信じ難く、耐え難かった。鼻の奥がキンと痛み、目が熱くなって視界が滲んでくる。それを堪え、庭へ出ると、池の近くに植えられた柊の樹の影へ座り込んだ。この場所は子供の頃からお気に入りで、しゃがみ込んでいると廊下や室内からは姿が見えないので、かくれんぼをする時によくここへ隠れたものだった。
自分の肩を抱き締め、俯き、真生子は震えた吐息を吐き出した。パタパタと眼から零れた透明な滴が土の上へ落ちる。
スタンドとは守護霊のようなものだと祖父は言った。ならば何故、母はそれに苦しめられなくてはならないのか。何故、苦しむのが母でなければならないのだろうか。何故、誰よりも明るく陽気な、あの母が、何故あんな目に合わなければならないのか。自分が苦しんでいる最中でも家族に気を配るような優しい母が。
嗚咽を堪えられずしゃくり上げていると、不意に、土を踏みしめる足音が耳に飛び込んで来た。枝を掻き分ける音に続いて、茂みから顔を出したのはやはり兄の承太郎だった。
「真生子」
どっしりと、それでいてスッと耳に澄み入るような低い声。先程のような動揺は、もう彼のどこからも滲み出ていなかった。
隣にしゃがみ込んだ承太郎に、泣いている所を見られたくなくて顔を背けるが、彼はすぐに気が付いたらしい。頬に張り付いた髪の毛を払われたかと思うと、手の甲で乱暴に涙を拭われた。ぐしゅ、と鼻を啜り上げると、承太郎は僅かに眉を顰めた。
「おれたちはすぐにエジプトへ発つ」
真生子が頭を上げた時、承太郎はすでに立ち上がろうと腰を上げていた。「おれたち」という言葉に妙な違和感がある。
「真生子、お前は日本に残れ」
「えっ?」
ガツン、と後頭部を殴られたような衝撃を感じた。
「はっきり言ってお前は戦いには向いてない。おれも、守ってやる余裕があるか分からん」
最もな意見だと思った。
彼の言うように、真生子は戦いの才など明らかに持ち合わせておらず、そもそも肝心のスタンドでさえ完全なヴィジョンを形成できていなかった。向いていないどころではなく足手まといになるかもしれない。
それでも、兄の残酷で現実的なその言葉は、真生子には許容し難いものだった。
弾けるように立ち上がると、半ば反射的に承太郎の胸に抱き付いて彼を押し留めた。
「嫌!」
「真生子、」
「わたしも一緒に行く」
駄々をこねる子供のようだ、と自分でも思った。
「皆が何とかしてくれますようにって、ただママの側で祈ってるだけなんて、そんなの嫌! わたしにだってスタンドがある、何か出来ることがあるはず、守ってなんて言わない! だから、お兄ちゃん、お願い……連れてって……」
最後の方はもう涙声で、兄の胸板に顔を押し付けたまま、モゴモゴとくぐもったみっともない言葉になってしまった。
それでも、承太郎の耳にはキチンと届いていたらしかった。メソメソと泣き続ける妹の頭に手をやり、稀にそうする時と同じようにぶっきらぼうに髪を撫でた。
「そういうと思ったぜ」
目を上げると、学帽の下で、兄は唇の端をニヤリと吊り上げていた。ポカンとして気の抜けた顔で彼を見ていると、
「ちょいと確かめただけだ……お前を日本に置いて行きたいのは本心だが、昔から、こうと一度決めたら譲らねえ奴だからな」
と承太郎は胸に引っ付いたままの真生子を剥がした。
「危険だぞ。ゴロツキ共と喧嘩するのとはワケが違うんだ」
「わかってる」
涙を拭って濡れた自分の手を見下ろす。意識すると、輪郭がブレるように分離して、白くぼんやりとしたもう一つの腕が現れた。未だはっきりとはしないが、数日前よりは確実に、それはヒトの形を留めていた。
不安がないわけではない。心臓が押し潰されそうな程の重圧が背中にのしかかっているのを感じる。それでも尚、彼らと共に行かねばならない、という奇妙な直感と使命感とに真生子は突き動かされていた。
きっと何か出来ることがあるはず。何か、果たさねばならない役目があるはず。この、白く光る薄ぼんやりとしたヴィジョンにも。
部屋へ戻ると、ジョセフが呼び寄せたスピードワゴン財団という医療団体の医師達が出入りし、慌ただしく医療機器や道具を準備し始めていた。ホリィは未だ布団の中で意識を失っている。
真生子はその傍に座り込み、青褪めた頬にそうっと触れた。脂汗を滲ませ、苦しそうな呼吸を繰り返す母の姿に胸が痛む。額に張り付いた前髪を避けてやってから、真生子は静かに立ち上がった。
行ってきます。
口の中で呟いて、真生子は襖に踵を返し、門の前で待つ旅の仲間達の元へ駆けて行った。