深い鉄紺色に塗り潰されていた空が、徐々に明るくなり始めている。開けた窓から吹き込む風は冷たく、体から熱が奪われるのを防ごうと、肩に掛けられた毛布を手繰り寄せ、体を縮めた。船が進む方向の水平線の付近はぼんやりと明るくなり始め、陸地に近付いているのだということが遠目にも分かる。窓枠に手を突いて身を乗り出しながら、真生子はぼうっと進行方向を眺めていた。
「灰の塔」に襲撃され、飛行機が不時着してから数時間が経過していた。救難信号を受けてやって来た救助艇に乗せられ、不運な乗客たちは香港へと運ばれてようとしていた。幸先悪くスタートしたエジプトへの旅路を、真生子は不安に思う。飛行機のコックピットで見た壮絶な光景を思い出し、思わず吐き気が込み上げてくる。真生子の丸めた背中をすかさずさするのは祖父の大きな手だった。込み上げてくるものを押し留め、真生子はどうにか背筋を伸ばした。

「まだ気分が悪いか?」
「少し……ごめんね、おじいちゃん。付き合わせちゃって……」

眉を八の字にしながら見上げると、「具合の悪い孫を放っておく訳なかろう」と彼は笑顔を作った。
件の事件の後、機長と副操縦士の死体を見た真生子は、堪らず吐きそうになってしまった。その時はコックピットへの出入り口の近くに立って遠巻きに見ていたからまだ良かった。直後、タワーオブグレーを操っていた本体の老人が凄まじい死を遂げるのを目の前で見てしまった。忽ちその場で嘔吐し、その後も何度も飛行機内のトイレで吐き、救助艇に乗せられてからもそんな調子が続いたため、見兼ねたジョセフによって、人でごった返していた船室の、比較的空いている隅の方へ連れ出されたのである。救助された際に服が濡れたため、毛布を羽織ってはいるものの少し肌寒い。周りにいた乗客たちは、窓を開けたジョセフに一瞬渋い顔をしたが、真生子が真っ青な顔で吐き気を催している様子を見て同情的な反応を示した。そうして、部屋の隅っこでひっそりと潮の匂いのする夜風に当たっているうちに、大分楽になったように思う。

「ほら、街が近づいてきたぞ。着いたらすぐホテルで横になれる。もう少しの辛抱じゃ」
「うん」

ハンカチで口元を覆いながら頷くと、幾分か調子の良くなったように見える孫娘に、ジョセフは少し安心したらしく眉尻を下げた。
彼が言うように、先程までは遥か彼方にあるように見えた街の光が、少しずつ大きくなっている。チラチラと陸地や建物のようなものが見えるような気もする。空が完全に明るくなる頃には港に着くだろう。
真生子は頭を上げて空を見た。夜明けが近づくにつれ、桔梗のような薄紫色に変化しつつある。無限に見える細やかな星々は燦然として輝きを放ち続け、頭上を覆い尽くしている。少し欠けた月も、白く輝きながらぽっかりと浮かんでいる。「綺麗だね」と間の抜けた声で言うと、祖父も同じように空を見上げ頷いた。
ふと、月のそばに、周りの小さな星たちよりも僅かに強く光るものを見つけた。

「あの星はなんていうんだろう」
「どれじゃ?」
「月の近くにある、白いの」

何と無く気になって指差しで示すと、ジョセフは人差し指の延長線上を目で辿り、それからああと納得したように唸った。

「ありゃ恒星じゃない、金星じゃ」
「金星?」
「うむ。明けの明星という言葉は知っているかの?」
「うん。でも、初めて見た」

興味深く思いながら目を細め、もう一度星を見る。それほど目立つ星ではない。少し上の方にある、真生子にも北極星だと分かるそれよりも、よっぽど控えめに輝いている。

「あの星には他にも名前があるんじゃよ」

孫の前でとっておきの知識を披露する際、祖父は決まってこのような得意げな顔をして胸を張る。

「海の星(Star of the Sea)とも呼ばれているんじゃ」

海の星? と真生子は間抜けな声で聞き返した。

「船乗りたちが航海の際に目印として使っていたんだそうじゃ。さらにマリア様のことを海の星、ステラ・マリスとも呼ぶんじゃよ。金星は様々な女神様として崇められてきたからのォ」
「さすがおじいちゃん……詳しいね」

感心と尊敬の気持ちを込めて言うと、ジョセフは自慢げにニヤリと笑った。それから真生子の肩を抱いて「これ以上は体に障る」と窓を閉め、仲間達がたむろしている一画へ向かって歩き出した。
真生子は窓を振り返った。輪郭のぼやけた月に寄り添う一粒の輝きを、なぜだかえらく気に入ってしまっていた。

ステラ・マリス。

聖母の名を聞いて思い出すのは、日本に残してきた母のホリィのことだ。いつも暖かく優しく兄妹を包み込み、慈愛に満ちた瞳で見つめてくれる母を真生子は愛していたし、明確に言葉では表さないが承太郎も同じ気持ちなのだろうと分かっている。母が倒れた時の事を思い返すと、苦しく辛い感情が沸き起こってくる。
あの背中から伸びる野苺の蔦のようなスタンドは、ゆっくりと体を蝕み、全身を覆い絡み付いて母を苦しませるのだという。真生子達には時間が無かった。五十日に間に合えば良いという話ではない。一刻も早く母から苦しみを取り除いてやりたかった。自分が高熱に冒されている最中でも子供達を気遣い、元気に振る舞おうとする優しさが、あの時の真生子にとっては苦しく、悲しかった。聖を意味する穢れなき名を持つ母を、真生子は常に想っている。
空港でのアヴドゥルの言葉が脳裏を過る。「星」のカードを逆向きに引いた真生子に、不安や自信のなさを乗り越える必要があると言った。
「灰の塔」との闘いの後、呼び出さずとも現れ、花京院の傷を癒した自身のスタンドに、真生子は若干の自負心を抱き始めていた。自分に与えられた使命は仲間を癒すこと、そうして仲間たちを守ることであるのだと。不安や心細さはすぐに消えるものではない。それでも混沌とした状況の中から掠め取った希望に、真生子は追い縋ることを決めた。包み込む優しさ、母のような明るさと包容力、癒しを、自身の半身に求めることを。

空の淵が薄いオレンジ色に変わり始めた頃、ようやく救助艇は港に停泊し、乗客たちは次々に香港に足を踏み入れている。下船口から吹き込む風は若干生温く、乾いた制服の裾を揺らして通り抜けてゆく。

「あのね、」

先を歩く仲間たちに続いて船を降りてから、真生子は混雑する港の中で立ち止まった。屈強で頼もしい四人の男たちは振り返り、何事かと真生子を見遣る。

「さっき、彼女をなんて呼ぶか決めたの」

上り始めた朝日を背に受けながら、自身のスタンドを召喚した。本体のそばに寄り添う彼女に、真生子は母のような優しさを感じ取っていた。