到来する冬の気配を示すように、地面を吹き抜ける風はヒヤリと足元に纏わり付く。制服の、襞がたっぷりとしたプリーツスカートの中に冷気が吹き込むと、ブルリ、と背筋が震えてしまう。鞄の持ち手を握る手は冷え、指先は僅かに赤く染まっていた。
「幽霊だと?」
真生子は神妙な面持ちで頷き、肯定した。数歩分、先を歩く兄は怪訝そうな顔で妹を一瞥した後、何も言わずに視線を前へ移した。
閑静な町並みに、朝特有の気怠い雰囲気が流れている。学校へ向かう小学生達が、元気良く走り回りながら真生子達を追い抜いて行った。それを見送った後、前で揺れる兄の背中を見上げる。身長差があり過ぎて、そばで見上げると首が辛いので、こうして妹が少し後ろを歩くのがお決まりとなっていた。
「嘘じゃないの」
本当なの、と呟くように漏らした言葉を、承太郎はしっかりと聞き取ったらしかった。二メートル近い巨体を揺らしながら振り返った彼に、真生子は肩を竦める。呆れられたのか、それとも鼻で笑い飛ばされるのだろうか。改造された学ランに身を包み、学帽の下から鋭い眼光を覗かせる兄を、真生子は恐る恐る上目に見遣った。
数日前から、周りでおかしな現象が起こり始めていた。
床に落としたはずのペンが、いつの間にか手の中に戻って来ている。
躓いて転びそうになった時、後ろから手を引っ張られて踏み止まった。
自分の腕が一瞬ブレて見える時がある。
極め付けに、昨晩、真生子はその「何か」の姿を遂に目にした。白くぼんやりとしてハッキリしなかったが、あれは確かに人の腕だ。自分の体の真横から突き出たそれに、真生子は一瞬気を失いそうになった。
「何か」がいる。
それを確信したから、こうして相談することに決めたのだ。同じ高校に通ってはいるものの普段は別々に登校している妹が、今日は珍しく一緒に行こうと言い出したものだから、彼はたいそう訝しんでいた。
「本当なのよ……お兄ちゃん。本当に、後ろに何かいるの」
承太郎は真生子の肩口に目を向けるが、何も見出すことは出来なかったらしい。やはり、信じてもらえないだろうか。
しかしこの、きょうだいで無ければ絶対に近付かないであろう厳つい風貌の男を、真生子は少なからず兄として信頼していた。仲良し兄妹というには程遠い関係であったが、困りごとが起こった際には必ず手助けしてくれる彼が、妹と歩く時は少し歩幅を縮めてくれる彼が、真生子は好きだった。
「別に、嘘だとは言ってない」
静かな低い声。うん、と頷くと彼は再び前を向いて歩き出した。何か思案しているらしかった。その後を慌てて追いながら、「信じてくれたの」と上擦った声で尋ねる。
と、不意に承太郎が立ち止まったので、真生子彼の背中に思い切り鼻をぶつけてしまった。
「よォ、てめーが"JOJO"か!」
「この前はダチが世話になったなァ!」
彼の後ろから顔を覗かせると、絵に描いたようなチンピラ、といったような風貌の男が三人、道を塞いで立っていた。ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。承太郎は小さく舌を打ち、さりげなく妹を後ろに追いやった。
「あ? 女連れか?」
「チャラチャラしやがって……」
「失せな」
承太郎が唸るように言い放った言葉に、チンピラ達は一瞬慄いたようだった。この、妹でさえ縮み上がるような、凄みのある気迫が、彼がこの界隈で最強の不良として恐れられている所以であった。
世話になったとはどういうことだろう。彼らの仲間と乱闘騒ぎでも起こしたのだろうか。兄が喧嘩をして帰ってくるのはしょっちゅうある事なので、いつの話なのか検討もつかなかった。
「回り道して先に行ってろ」
小声でされた指示に、真生子は「でも」と狼狽した。
「いいから行けッ」
振り向いて睨みを効かせられ、その剣幕に怯んでしまう。真生子は言われるまま踵を返すと、ついさっき通り過ぎたばかりの小道へ逃げ込もうとした。
しかし、不意に後ろから伸びてきた腕に首を掴まれ、真生子は訳も分からぬまま一瞬で拘束されてしまう。引き攣った悲鳴を漏らしながら見上げると、物陰に隠れていたらしい、不良達の仲間の一人らしき男がニヤついていた。
「お兄ちゃん!」
裏返った声で叫ぶと、男はポケットから何かを取り出した。ギラリ、と男の手の中で何かが光る。それを喉元に突きつけられてからようやく、折り畳み式ナイフだ、と気が付いた。承太郎が振り返り目を見開く。
「動くな! てめ~、女がどうなってもいいのかッ」
彼の後ろで、ニタニタしたチンピラ達が各々の武器を取り出したのが見えた。
卑怯な連中だ。頭にカアッと血が上る。人質を取って、一方的にリンチするつもりらしい。自分が捕まらなければ。この腕を振り払う力があれば。
男の腕に手を掛け、引き剥がそうとして真生子は藻掻いた。
──キン、と金属が弾ける音がした。
男が手に持っていた筈のナイフが、数メートル先で一度バウンドし、回転しながら地面の上を滑って行った。
「え!? な、なんだ……?」
半透明の白い腕。背景の透けて見える光の手が、男の右手首を掴み上げている。その発生源を目で辿り、真生子は驚愕した。首を抑えている男の腕を振り解こうと掴んだ、真生子自身の手から、分離するようにそれは伸びていた。
恐れ戦いた男が奇声を上げた次の瞬間、後頭部に強い衝撃を感じた。意識を飛ばす直前、前のめりに倒れながら、兄の姿が不自然にブレるのを真生子は見た。
……頬に触れるアスファルトが冷たい。
辺りは静まり返っていた。鳥の鳴く声に混じって、パトカーと救急車のサイレンが遠くから響いている。そうっと目を開けると、地面に点々と赤黒い染みが落ちていた。それを辿ると、道の向こう側に何人かの男が倒れている。腕や脚が妙な方向に曲げられていた。呻きながらピクピクと痙攣している。死んではいないらしい。彼らの近くには幾つかの物騒な武器が転がっていた。
おにいちゃん? と微かな声で呼ぶと、よく磨かれた一対の革靴が視界の中に現れた。肩を引かれ、仰向けに引き起こされる。体勢を変えると、殴られたらしい後頭部が少し痛んだ。
「真生子」
今日、初めて名前を呼ばれた気がする。間延びした調子で返事をすると、彼は少し眉尻を下げた。精悍な顔は青褪め、僅かに動揺しているようにも見える。承太郎はのっそりと体を屈めた。
「さっきの話、おれは信じるぜ」
頭を打ったせいか思考が回らない。さっきって、と訊き返すと、彼は暫し黙ってから妹を抱え上げ、到着したばかりの救急車へ向かって歩き出した。
「幽霊が憑いてるのは、お前だけじゃねえってことだ」
その言葉の意味を理解できたのは、その後彼が留置所で拘束されてから数日、祖父とその知人という男がアメリカからやってきてからだった。