「止血は終わりました。鎮痛の効果も少しはありますが、これ以上はわたしには出来ないので……」
ぎゅっと力を込めて布を縛り付けてから、真生子は自分の頬に散った血を手の甲で拭った。
アヴドゥルの怪我は命に関わるようなものでは無い。ステラ・マリスの文字通りの手当てで、出血は抑えられている。以前より明らかに治癒能力が強化されてはいるが、切断された両の腕の処置は知識の無い真生子には出来なかった。これがただの大きな裂傷ならば、一度縫合するか、ジョセフの波紋を利用して傷口を合わせてからなら治療することが出来た。しかし今は医師も祖父も側に居ない。それに、縫合前に切断面から飛び出した骨を削る必要がある。医療器具も時間も清潔さもないこんな環境では不可能だった。
苦痛から脂汗を額に滲ませたアヴドゥルは、それでもしっかりとした声で、うむ、と短い返事をしてから、ふと壊れた壁の方に顔を向けた。真生子もつられて目を遣る。穴が開いてボロボロに崩れた外壁の向こうには、じんわりと沈む夕陽が照らすカイロ市街が、鮮烈なオレンジ色に輝いていた。
「外が、明るいうちに……」
絞るように呟きながら、胸がぎゅっと苦しく押し潰されそうになるのを感じた。日が沈む。もうすぐ、夜の世界が来る。
「スピードワゴン財団の車が、ホテルの前に止まっていますから。ちゃんとした治療を受けて下さい。あと……イギーをお願いします」
足元でボロ布に包まって眠っている犬をそうっと抱き上げ、アヴドゥルの腕に抱えさせる。あの、亜空間を移動するスタンド使いは、随分と酷い目に遭わせてくれた。完全には治しきれていないが、様子を見る限りでは、危機は脱したという所だろう。あとは財団の医療スタッフに任せる他ない。
立ち上がろうとすると、肋骨の辺りに鈍い痛みが走った。思わず息が詰まる。イギーを庇った際に酷く蹴られた場所だ。他にも数箇所痛む箇所があるが、気にしてはいられない。
「行くのか」
蹌踉めきながら立ち上がった真生子に、アヴドゥルはそう訊いた。振り返ると彼は太い眉を顰め、真生子の制服の袖から伝い落ちた血の滴りを見つめている。
「……ええ。ポルナレフさんを追わなきゃ……走るのは、ちょっとまだ難しそうだけど……でも、大丈夫です」
手首の具合を確かめながらすこし微笑む。アヴドゥルは深い息をゆっくりと吐き出した。背後の瓦礫に背を預け、目を閉じて何事かに考えを巡らせている。
「君は変わった。勿論、良い方向に」
不意にそう言うものだから、真生子はきょとんとしてしまった。
「あの日、東京の空港で、君は可哀想になるほど怯え、震えていた。あの時私が言ったことを覚えているか?」
「自信を持て……って?」
「そうだ。そして、『星』のカードが持つ暗示は……」
「……希望?」
アヴドゥルはふっと目を開け、力強く頷きながら笑いかけた。
「そのどちらも、今の君はしっかり持ち合わせているぞ。誇りに思って良い。私は一緒には行けないが、君の勝利を確信している」
「……アヴドゥルさん」
「さあ、行くんだ。ポルナレフが一人で突っ込んでいかないうちにな」
優しい微笑みは、やはり父親のような暖かさに溢れていて、つい泣きそうになってしまうのだ。
ありがとう、と口の中で噛み締めるように呟いてから、真生子は踵を返した。もう泣かないと決めていたはずなのに、ポロリと一粒だけ零れ落ちてしまったのは、悲しさや絶望からでは無く、彼が齎してくれた勇気と自信が、あまりにも優しく温かなものであったからだ──と、心の中で言い訳しながら。