駅前広場のカフェ・ドゥ・マゴは、専ら高校生の溜まり場となっている。チープなファーストフード店とは違う、ビターなオトナの雰囲気と、日当たりのよく心地良いオープンテラスが、ちょっぴり背伸びしたい年頃の少年たちの心を掴むのだろう。
真生子も、この居心地のいいカフェが大層気に入っていた。テラス席の端っこに腰を落ち着けて、アフタヌーン・ティーを楽しむのんびりした時間が好きだった。昼過ぎに席に座っていると、授業を終えたばかりの顔見知りの高校生たちがやってくることがある。育ち盛りの彼らにケーキをご馳走して、美味しそうに頬張る姿を見ていると、下にヤンチャな兄弟ができたような気になって、ついつい微笑んでしまうものだ。
しかし今日は、そんな優雅なお茶会の雰囲気とは全く違う。
テーブルに広げられた、様々な教科の参考書やらノートやらと睨めっこして唸る仗助の前で、真生子は紅茶を啜りながら苦笑していた。
──勉強、教えてください!
何やら慌てた様子でやってきたかと思えば、そう言って勢い良くリーゼント頭を下げた仗助の様子を頭の中に思い起こす。真生子はしぱしぱと目を瞬かせ、訝しい声で名前を呼ぶ。立体感のある髪の影から覗く太い眉尻は下がり、垂れがちな眼は縋るように向けられていた。
──もうすぐ中間テストなんです。
大きな背を丸め、お願いします、と上目にもう一度請われては、もう断れなくなってしまう。年下の「叔父」を弟のように可愛がっている真生子は、こうしてすっかり彼に絆されてしまったのだった。
「生物は、お兄ちゃんに聞いた方がいいんじゃないかな」
ぱらぱらと教科書を捲りながら、真生子は困ってしまった。高校時代にどんな勉強をしていたか、ぼんやりとしか覚えていないし、十年前とは教育課程も変更されている。
「承太郎さんが勉強を教えてくれるっつーのを、想像出来ないんスよね~」
鼻の頭にペンを乗せてそう言う仗助に、つい笑みが漏れてしまう。高校生だった頃、真生子は時折彼に教えを請うたものだった。不良と呼ばれ続け、学校中の誰からも一目置かれていた承太郎であるが、成績は常にそれなりの水準をキープしており、真生子が尋ねたことには必ず正確に答えてくれた。
「やれやれって言いながら、ちゃあんと教えてくれるよ。さ、どこまで進んだの」
椅子を少し寄せて、机から身を乗り出す。仗助は英語のテキストに苦戦しているようだ。些細なミスを指摘すると、彼は照れ臭そうにその箇所を消しゴムで擦った。
ふと、妙な気配を感じて、真生子はふいと顔をあげた。首筋の辺りに視線を感じたような気がした。辺りを見回しても、こちらに顔を向けているような人影はどこにも見つけられない。真生子は仗助に気付かれないように薄い溜め息を漏らした。
十年前の件の旅を経てから、人の気配や視線というものに過剰に敏感になってしまっている。この街へやってきた意味を考えると、だらりと気を抜いてリラックスしてしまうことは許されないが、あまりにも神経質になりすぎるのも良くない。仗助に名前を呼ばれ、ここが分からないのだと話しかけられて、真生子は我に返った。
そうして一、二時間付き合っているうちに、街並はすっかり薄闇に包まれた。駅前の街頭にはオレンジ色の光が灯り始めている。鮮やかな藤色と橙のマーブル模様の空を一瞥し、それから仗助は自分の腕時計を見た。あまり遅くなると母親にどやされるのだと言って、彼は慌てて勉強道具を片付け始めた。
「あのォ~、真生子さん。よかったら、明日もお願いしたいんスけど……」
鞄の中へ教科書を突っ込みながら、仗助は遠慮がちにそう尋ねた。真生子はつい笑ってしまう。「ええ、勿論」と答えると顔を輝かせるのが、嬉しい時に尻尾を振る仔犬のようで可愛らしい。それにしては、随分と図体の大きな仔犬だが。
「明日は何の教科?」
「現代文とか……」
「そう、じゃあ、典明を連れて来るよ。彼、本が好きだから」
と真生子が言うと、「花京院さんをですか!?」と仗助は大きな声を出して仰け反った。予想外の反応をされて、真生子はギョッとしてしまう。
「もしかして……典明とは反りが合わない?」
「あ、いえ! そんなことないです! お願いします! じゃ、また明日!」
真生子が口を開く前に、仗助は鞄を脇に抱え上げ、手を振りながら小走りに去って行った。
後に残された真生子は首を傾げ、しばらく考えていたが、結局彼の慌てように心当たりは無かった。
◆◇◆
「勉強は捗ったのかい」
もう一ヶ月も宿泊し続けている、杜王グランドホテルの一室。戻ってきた真生子に向かって、夫が開口一番にそう言うものだから、つい唖然としてしまった。
典明は扉に背を向けてソファに座っていた。膝の上で新聞を開いているがびくりとも動かず、長い前髪が微かに揺れただけでそれきり黙ってしまう。
「どうして知ってるの? もしかして駅の前を通った?」
コートを壁にかけながら尋ねると、彼はああともうんともつかない返事をした。あの時感じた視線は彼のものだったのだと納得し、通ったのなら声を掛けてくれたらいいのに、と口を尖らせるが、典明はやはり何も言ってはくれなかった。
「典くん?」
ソファの前に回り込み、隣に腰を下ろす。典明はぼうっと紙面を見つめているが、眼球には全く動きがない。そっと手を伸ばして新聞を取り上げると、彼はようやく眼鏡越しにこちらを見た。凛々しい眉はムッと顰められ、唇も真一文字に引き結ばれている。機嫌が悪いのを、なるべく表に出さないようにしている時の顔だ、と思った。
典明は真生子の手から新聞を奪い、床へポイと放った。
「何を教えてたんだ?」
ぐいと顔を近づけられ、一瞬狼狽えてしまう。英語を見てやっていたのだと答えると、彼はふうんと訝しげに鼻を鳴らした。
「もうすぐテストだっていうから、少し手伝ってただけだよ……ねえ、典くん、現代文得意だったでしょう、明日は一緒に見てあげてよ」
典明はじっとりと茶色い目を細めている。お願い、と少し首を傾けながら言ってみると、彼は眉間のシワを解いて大袈裟な溜息を漏らした。
「君は本当に、『叔父さん』に甘いな」
典明は眼鏡を外した。真生子を抱き締め、胸に鼻先を寄せて顔を擦り付けてくる。その甘える様子がなんだか可笑しくて、真生子はフフッと笑い声を漏らしてしまう。仗助が犬なら、今の典明は猫のようだ。
「なあに。もしかしてヤキモチ?」
大きな体を丸めて胸に顔を埋めている彼に尋ねると、「なんでぼくが妬かなきゃあならないんだよ」とくぐもった声が聞こえてきた。
彼には昔から、ちょっぴりこういうところがある。
毎日たっぷりの愛情表現をして、愛を囁きあっても、このヤキモチ焼きはどうにも直せないようだ。過剰に束縛したり、喧嘩になったりするわけでは無いから、微笑ましく可愛らしいものだと思う。何より、自分が愛されて大切にされているのだと実感出来て、つい頬が緩んでしまう。
「……呆れてるかい?」
ぼそりと呟いた言葉に、そんなことないよと優しく返す。彼の強張った肩から力が抜ける。赤茶の髪を撫で、子供をあやすように宥めていると、典明はちらりと目を上げた。
真生子はぎょっとしてしまった。ショボくれて落ち込んでいるのだとばかり思っていたら、彼は実に楽しそうに口元を歪め、意地悪な笑みを浮かべているではないか。
「君を独り占めしたいんだ」
肩を優しく押され、真生子はそのまま後ろへボスンと倒れ込んだ。クッションの山に埋れながら、反射的に閉じてしまった目を開けると、典明がニヤニヤしながら体の上へ乗り上げてくるのが見えた。
「なあ……ぼくにも教えてくれるだろう?」
何を、と聞き返そうとした言葉は、彼の唇に遮られて途切れてしまった。
◆◇◆
「──……だから、この設問の答えはこの段落の中にあるんだ」
キビキビとした典明の解説を、仗助は唸り声をあげつつメモを取っている。赤いペンを構え、眉間に皺を寄せながらノートを見つめる姿は、学校の先生というよりは、家庭教師という方が似合っているかもしれない。
紅茶を口に含み、飲み下してから、真生子は小さな欠伸を一つした。それに気付いた典明が、問題に苦戦している仗助を尻目に顔を近づけてくる。
「真生子、眠たそうだな……疲れたのかい?」
恥ずかしくて体を離そうとしても、椅子を隣に並べて座らされているので、腰に手を回されて引き寄せられると、簡単に肩が触れ合ってしまう。
「うん……平気」
「ああ、夕べ、寝たのが遅かったからね……」
耳元に唇を寄せてそう言われ、吐息がかかる擽ったさに体を反らせた。夕べ、と言われて赤面してしまい、顔を見られないように俯く。頬にかかった髪を、典明の指がそっと払い除けた。
鼻の下にペンを挟んだ仗助が、「こ~なるから嫌だったンすよ」と呆れ顔で漏らした小さな呟きは、最高に機嫌の良さそうな典明の耳には届いていないらしかった。