隣の部屋から聞こえてきた僅かな物音に、意識がゆるゆると現実に引き戻される。
カリカリと忙しなくペンを動かす音。瞼をそっと持ち上げる。シーツに投げ出した自分の腕が目に入った。いつも隣で眠っている彼の姿はない。のっそりと体を起こすと、頭の芯が鈍く痛むような気がした。
僅かに開いたドアの隙間から、一筋の光が漏れていた。肩にかかっていたブランケットを避け、ベッドから滑り降りる。そっと扉を押し開いてみると、リビングの椅子に腰掛けた典明の広い背中が見えた。机の上にはノートやら書類やらが散乱している。
「……まだ起きてたの?」
ふわ、と欠伸を噛み殺しながら、真生子はそう声を掛けた。
忙しく動いていた右手がピタリと止まり、典明は振り返った。眼鏡の奥にある目は、少し充血しているようだ。
「もしかして起こしてしまったかな」
「ん……大丈夫」
凛々しい眉の端が、申し訳なさそうに少し下がる。真生子は慌てて首を横に振った。
さりげなく時計に目を遣る。あと数時間で夜が明けようかという時刻だった。書き掛けのレポートを終わらせるから先に寝ていてくれ──と言われたのが二十二時頃だった筈であるから、どうやら、彼はそれから四、五時間も執筆作業に勤しんでいたらしい。毎度のことながら、典明の集中力には溜め息が出てしまう。この精神力の強さと真面目さは間違いなく彼の長所であるのだが、あまりにも集中していると、他のことに意識が行かなくなってしまうことがある。
時々、真生子は心配になってしまう。
「あんまり根を詰めるのは体に良くないよ」
「うん……でも、もう少しで終わるから」
「……コーヒー淹れようか?」
その些細な提案に、典明は嬉しそうに頬を緩ませて同意した。
二人分のインスタントコーヒーを拵え、お揃いのマグカップに注ぐと、香ばしい匂いがキッチンに漂う。机の上にそっと置くと、典明は礼を言ってそれを手に取った。僅かに細められた目は依然として資料を睨み続けている。
真生子は自分のカップを抱えて、ソファに腰を下ろした。ミルクをちょっぴり加えたコーヒーは、ほんの少しほろ苦いが、真生子の全身を蝕む強烈な眠気を誤魔化すことは出来ない。
「ベッドで寝たら?」
すぐに船を漕ぎ始めた真生子に、典明は心配そうに声をかける。
「ここで待ってる……」
「無理しないで、」
「ちょっとでも近くに居たいの……」
ぼんやりした意識の中で、むにゃむにゃと不明瞭に呟いた我儘に、典明が苦笑したような気配がした。
……真生子は夢を見ていた。
典明が、ソファに乗り上げてくる。優しい声で名前を呼んで、そうっと唇を押し付ける。彼が舌をゆっくりと絡ませてくるので、真生子もそれに応えようとした。夢の中では、舌は震えるばかりで思うように動かなかった。
胸のあたりが急にすーすーする。典明の手が直に触れて、優しく肌の上を這っていく。胸の双丘を、腹を、腿を。彼は彼方此方に熱心にキスを落としていく。上半身から下半身へ。あられもない部分にも、全て余すところなく彼の唇が触れてゆく。その度に、真生子の体の中心は痺れたようになり、意思と無関係に蕩けてしまう。
欲求不満なのだろうか、と真生子は夢現に考えた。彼に抱いてもらう夢を見るなんて。
彼の腕が伸びて来て、優しく脚を持ち上げた。
「……ん、」
下腹部の異物感と、そこから広がる甘い痺れに、ようやく我に返った。
目の前には彼の長い前髪があった。それを目で辿ると、自分の上に覆い被さっている典明と視線がぶつかった。彼はもう眼鏡を掛けていなかった。ギラギラした欲望を剥き出しにした鳶色の瞳には、寝惚けた顔をした真生子だけが映っている。
「の、り、くん?」
「すまない、真生子……許してくれ」
「あ……っ?」
彼が体を揺らすと、忽ち下腹部からゾクゾクした感覚が駆け上ってくる。
自分の首から下を見下ろしてみると、寝間着の前が大きく寛げられ、乳房も腹も太腿も全て露出している。脚は彼の手に持ち上げられ、無防備になった脚の間に向かって、典明の腰が押し付けられていた。彼が律動すると、粘ついた音が繋がっているところから漏れ出す。目覚めたばかりだというのに与えられる快感に、真生子は戸惑い、拒むこともできない。
「あ……レポート、は……?」
頭が働かない状態のまま、真っ先に思い浮かんだのはそんなことだった。
典明は一瞬気の抜けた顔をした。可笑しくて仕方ないというように笑いを噛み殺した表情で、「もう片付いたよ」と答えながら、真生子の額にキスをした。
「君を起こしてベッドに連れて行こうとしたんだが……なんていうか。眠っている君を見ていたら、すごく愛しくて仕方がなくなってしまって……」
未だ覚醒しきらぬ頭では、その言葉を解するのにかなりの時間を要した。
「ぁ、や……ぁ」
激しく中を擦り上げられると、意思とは無関係に、体は敏感に反応してしまう。零れた愛液が、尻の方まで伝ってくる。ソファが汚れる、とぐちゃぐちゃの頭の中で妙な心配をしたが、それもすぐにどこかへ吹っ飛んでしまう。
「あ……きもちぃ……」
「ん? これ?」
奥まで押し込まれ、子宮を優しく擦られると、意識が飛びそうになるほどの快楽に侵されてしまう。真生子の好きな場所を知り尽くした彼は、好い所ばかりをしつこく責め立てた。覚束なく呼吸を繰り返す真生子を、典明は嬉しそうに見下ろしている。
たまらないといった様子で、唇を力任せに押し付けられては、息が苦しくて仕方が無い。舌を絡み取られて、負けじと彼のそれに吸い付こうとしても、寝起きでは舌にすら力が入らないのだ。
「ああ……出すよ、」
酸素を求めて唇を離した隙に、彼はそう呻いて真生子を抱き締めた。のりくん、と譫言のように漏れた言葉に応えるように、彼はビクリ、と背中を震わせた。
◆◇◆
目を覚ますと、シーツの上に投げ出された自分の腕が見えた。
隣で眠っている筈の彼の姿はなく、ブランケットは綺麗に掛け直されている。それを避け、体を起こすと、何故だか腰が鈍く痛んだ。壁にかかった時計は、ちょうど昼食どきを示している。いくら休日とはいえ、少し寝過ぎてしまったようだ。
ベッドに座ったままぼうっとしていると、玄関の扉が開く音が聞こえた。静かな足音と共に寝室に顔を出した典明は、ベッドの上で黙っている真生子を見つけ、少し驚いたらしい。
「ああ、真生子。起きてたのか」
「出掛けてたの……?」
瞼を擦りながら訊くと、彼は「レポートを提出してきたよ」と微笑みながらコートを脱いだ。それを椅子に掛けてから、ベッドに片膝を乗り上げ頬にキスをしてくる。
「夕べは無茶をさせてごめんよ」
「夕べ?」
「おいおい、また『覚えてない』なんて言わないでくれよ」
寝惚け頭のまま、彼の言葉の意味を考える。
そういえば夜中に目が覚めて、コーヒーを淹れてあげたような記憶がある。その後は、ソファで彼の作業が終わるのを待っていて──そして。
彼の手が体中を撫で回している光景が脳裏に浮かぶ。耳元で愛を囁き、いたる場所に惜しみなくキスを振る舞って、そして真生子の体の中に熱を放った。
そこまで思い出してからハッとして、頭を軽く振った。
「……なんか、すっごく恥ずかしい夢を見たような……」
顔を熱くしながら真生子がそう漏らすと、「だから、それが夢じゃあないんだって」と呆れた様子で言われ、数秒後にはさらに真っ赤になって俯く羽目になったのであった。