ボコンという鈍い打撃音と共に後ろへ吹っ飛び、廊下の壁に頭を強打した兄を、真生子は呆気に取られたまま見つめていた。
承太郎はずりずりと床に座り込み、文句の一つも言わないまま、切れた口元を手の甲で雑に拭う。慌てる母や祖父母が止める暇もなく、彼を殴り飛ばした張本人が再び拳を振り上げたのを見て、真生子はハッと我に返った。

「パパ! だめ!」

庇うように兄の前に割り込み、彼の首に抱き着いた。
目の前に立つ壮年の男は──実に数カ月ぶりに対面した父の貞夫は、顔面蒼白のまま承太郎を、そして真生子を見、いったんは下ろしかけた手を再度振り上げる。
殴られる、と思っても、真生子は唇を噛み締めたまま父から目を離さなかった。スタンドを使ってそれを回避しようともしなかった。兄がそうしたように。

けれど結局、その拳が頬に叩きつけられることはなかった。
身体に鈍い衝撃が走って、気が付いた時には、兄妹まとめて強く抱き締められていた。

「──この、馬鹿野郎どもがッ!!」

肩口に顔を押し付けてきた父は、痛いくらいに力を込めて二人の背中に腕を回す。
父が泣いているということに気がついて、真生子は兄を横目で見た。承太郎の睫毛が微かに震えたのが分かって、今までずっと我慢していた様々な感情が、にわかに体の中から込み上げてくる。
堪えきれず、真生子は父の肩に顔を埋めると、彼のシャツへ静かに涙を染み込ませた。


◆◇◆


父は、真生子たちが東京の自宅へ戻ってホリィとの再会を喜びあった、その直後に慌てた様子で姿を現した。
ジャズミュージシャンとして、世界各地を巡る船上コンサートツアーの真っ最中だった貞夫には、ホリィの強い意向によって、ツアーが終了するまで連絡がなされなかった。
そもそも海の上にいた彼とは通信困難だったという事情もあり、諸々の状況を知ったのはコンサートが終わって東京へ戻ってきた直後だったという。

妻のホリィが危篤状態だったということ、また息子や娘、義父やその他の協力者数名が、ホリィの病の原因を取り除くためにエジプトで命を賭して戦っていた──などという、壮絶かつ奇妙な状況をすべて「過去形」で伝えられ、一体どのような修羅場が起こったのかは、真生子には知る由もない。
DIOのことやスタンドのことなどを、父がSPW財団のスタッフからどの程度の説明を受けているかは分からない。
もし聞いているのだとしても、スタンドが視えない父がどのくらい理解してくれるのかは想像がつかなかった。

ともかく父は、母を助けるためとはいえ子どもたちが大変な危険に晒されていたということを激怒していた。ホリィに対しても、なぜ早く知らせを寄越そうとしなかったのだと強く諌めていた。

居間の真ん中では祖父と父の口論が繰り広げられ、それを祖母と、すっかり元気になった母がまあまあと宥めている。
真生子は部屋の隅っこで、承太郎の傷の手当てをしていた。消毒液を塗った脱脂綿で唇の端の傷口を撫でると、染みてしまったようで兄は顔を顰めている。
スタンドで治そうか、と尋ねはしたものの、彼はそれを是としなかった。確かにスタンドを使えばすぐ元通りになるけれど、父の心境を考えると、承太郎はそうしたくないのかもしれない。

「痛むの?」

痣になっている頬を気遣うと、承太郎は低い声でそれを肯定した。
「DIOのパンチは避けれたのにね」と言えば彼は薄く笑う。真生子も釣られてニヤリとした。

「花京院のほうも、たぶん相当ヤバいぜ」
「うん……家族に何も言わないで出てきちゃったんだもんね」
「ああ。財団の連中が付き添って説明に行ってるらしいが、どれだけボコボコにされてるか後で見ものだ」

承太郎はのっそりと腰を上げ、まだまだ終わりそうもない言い争いを一瞥したあと、「おれは寝る」と言い残して部屋を出ていく。
真生子もそれに便乗することにした。静かに廊下へ滑り出ると、二ヶ月弱ぶりに自室へ向かった。


◆◇◆


泥のように深い眠りから目覚めると、窓の外に見える空は群青と橙のグラデーションに塗られていた。
日付が変わる前に布団に潜り込んだはずだから、もしかして朝方かと思いきや、どうやら翌日の夕方らしかった。ほとんど丸一日近く眠ってしまったようだ。こんなにたっぷり眠ったのは、一体いつぶりだろう。
寝間着から着替えようとして、つい制服に手を伸ばす。けれどよく考えてみればそんな必要はもうないのだ。これからは清潔な服を毎日着られるし、下着の替えを気にしなくたっていい。
以前は当たり前だったほんの些細なことでも、今はとびきり有り難く、嬉しく感じる。箪笥の中からお気に入りの普段着を引っ張り出して、久しぶりに袖を通した。

台所のほうから、母と祖父母の話し声が聞こえてくる。
ホリィの声は以前と変わらず明るくて、真生子の心を和ませる。眠っている間にジョセフとスージーQがアメリカへ帰ってしまっていたら寂しいなと思っていたが、そうでなかったことに安心した。
居間に出てみると、父が机の前に腰を下ろしていた。まだ湯気の立つ湯呑みを手の中に収めているが、飲む素振りも見せずぼうっとしている。
父は真生子が渡り廊下に突っ立っているのに気付き、無言で手招きして隣の座布団の上に座らせた。

「体調はどうだ」
「うん、元気だよ、大丈夫」

そう答えると、顰め面が少しだけ和らいだのが分かった。
兄について尋ねると、先ほど少しだけ起きていたがまた部屋に引っ込んでいったのだと教えられた。承太郎も相当疲れが溜まっているはずから、好きなだけ眠りたいはずだ。

窓の外では雪がチラつき始めている。数日前までエジプトに居た真生子にとっては、この気温差が少し辛い。
ぼんやりと庭のほうを眺めていると、ふと父に名前を呼ばれる。振り返って見た彼の眼の奥に、深刻そうな、思い詰めたような暗い色があるのに気が付く。真生子の背筋は無意識のうちにスッと伸びていた。

「昨日は大声を出して悪かった。お義父さん……ジョセフおじいちゃんから詳しいことを聞いたよ」

娘が頷いたのを見て、父は真剣な眼差しをこちらに向けながら言葉を続けた。

「承太郎やお前に辛い思いをさせてしまったな。父親がそばにいてやるべきだったのに……すまなかった」

たぶん、承太郎にも同じような言葉をかけたのかもしれない、と思った。
真生子は、うん、とだけ返事をして、それからなんと言葉を続けたらよいのか、しばらく思案していた。

話したいことがたくさんある。
仲間たちのこと、スタンドのこと、旅の間の出来事のこと。船上ツアーがどんなだったのかも尋ねたいのに。
言いたいことが多すぎて、どれから話せばいいか悩んでしまう。
けれど、眉間に皺を寄せて険しい表情をしている父を見つめていると、これだけは真っ先に伝えておかなければならない、ということがたったひとつ、胸の奥から湧き上がってきた。
あのね、と真生子は静かな声で切り出した。

「辛いことや痛いことも多かったけど、でも、楽しいことや嬉しいこともたくさんあったんだよ」

予想していたのとは違う言葉が返ってきたのだろう、父は目を瞬かせている。

「飛行機や車、船、セスナ、ラクダ、潜水艦……いろんな乗り物に乗って、いろんな場所に行って、いろんな景色を見てきた。パパの世界ツアーに負けないぐらいね」

目を瞑って、これまでの旅路に思いを馳せる。
異国の街の風景、灼熱の砂の匂い、海の波飛沫の音、車に揺られる感覚。
きっと、この先の長い人生の中で、幾度となく思い返す。忘れてしまうことは決してないだろう。

「そして何より、みんなでママを助けられたこと、誇りに思ってる」

不在がちな父だが、自分たち兄妹を大切に思ってくれていることはちゃんと分かっている。それだから、彼が子どもたちに負担を強いてしまったことを悔いていることも、分かっている。
けれど、自分が居なかったことを責めないで欲しかった。真生子も承太郎も、この五十日間の旅のことを後悔などしていないのだから。

瞼を持ち上げれば、こちらを見つめる父と視線がぶつかる。
普段はほとんど表情を変えない寡黙な彼は、真生子の言葉に何度か頷いてから、うっすらと笑みを浮かべた。

「おれが留守のあいだに強くなったんだな、真生子。母さんを守ってくれてありがとう」

真生子は穏やかに微笑み返した。
旅を通じて成長できた自覚はあったけれど、久々に会う父の目にもそう見えているのなら、素直に嬉しかった。

台所から、夕飯のいい香りが漂ってくる。
昨日は食べそびれてしまったが、今日は念願だった母の手料理が食べられるかもしれない。もしかしたら、スージーおばあちゃんも一緒に作っているのかも?
長いこと眠ってしまっていたから、お腹がペコペコだ。
「ご飯の支度を手伝いに行くね」と父に告げて、真生子は腰を上げる。
と、居間を出ようと廊下に踏み出したところで、もう一つ言っておきたいことがあったのを不意に思い出し、肩越しに父を振り返った。

「あとね。彼氏ができたの」

ごとんと音を立てて、父が持っていた湯呑が垂直なまま机に落下した。
真生子はくすくす笑った。背後で父が「どういうことだ」と慌てた声を出しているのが面白くて仕方なかった。今度、父が居るときに「彼氏」を家に連れてきて紹介するのもいいかもしれない。

通りがかった窓越しに、東京の夜空が目に入った。
あの旅の最中に見上げていた美しい空よりもずっと明るく、比べものにならないほどに星の数が少ない。
けれど、これこそが真生子の故郷の空だ。
見慣れた、いつもの夜が戻ってきた。
この平穏に感謝しつつ、真生子は軽い足取りで台所へ向かった。