「真生子、花京院くんから電話よ」

長い廊下に、明るいソプラノ・トーンが響いている。呼びかけに対する返事はない。再度、母は妹の名前を呼ぶが、夜の闇に沈んだ庭園から虫の鳴く声が聞こえてくるばかりだ。自室で読書に勤しんでいた承太郎は重い腰を上げると、廊下へ出、居間のあたりで受話器を手にウロウロしている母の姿を遠目に確かめた後、真生子の部屋の襖を無遠慮に開いた。
照明も点いていない暗い部屋の中央に敷かれた布団が、こんもりと丸く盛り上がっている。中に入っているはずのものはピクリとも動かない。承太郎は呆れながら例の口癖を呟き、枕の傍にしゃがみ込んで顔を近付けた。

「おい」

掛布団から唯一はみ出していた白い手が僅かに反応した。不貞寝しているかと思えば、どうやらしっかりと起きているらしい。

「電話だと」
「……出たくない……」

僅かな沈黙の後、くぐもった声が聞こえてくる。承太郎は溜息を吐いた。黙って立ち上がり、廊下へ顔を出した。

「真生子ったらどうしちゃったのかしら……夕食も食べたくないって言うし」
「後で掛け直させると言ってくれ」

困り顔の母に向かってそう呼び掛けてから、承太郎は体を引っ込めて妹を振り返った。
真生子は布団の隅から、ちらりと緑の双眸だけを覗かせて、こちらを見つめていた。呆れつつ照明の紐を引き、部屋に明かりを灯す。眩しい、とだけ言うと再び布団へ潜り込んでしまった。

「喧嘩でもしたのか」

兄妹の間に長ったらしい前置きは必要ない。いきなり核心をつくと、真生子は布団の中で動揺しているらしかった。モゾモゾと身を捩っている様子が伺える。蠢く芋虫に成り果てた彼女の様子に溜息ばかりが漏れた。
喧嘩自体は、ごく稀にだが、やはりあるらしい。理由を聞けばこちらが呆れてしまいそうな、ほんの些細な諍いがあって、機嫌を悪くして帰ってくることだってある。そんな時でも、食事は必ず摂っていたし、数時間すればケロリとして居間のテレビの前で笑っていたりする。しかしこんな風に、不貞腐れて部屋に閉じ篭るのは初めてだ。

「珍しいこともあるもんだ」
「…………」

ぐす、と鼻を啜る音にぎょっとして、掛布団の中を覗くと、真生子はやはり体を丸めながら泣いていた。先程は暗がりで分からなかったが、瞼は赤く腫れて、鼻の頭もほのかに染まっていた。彼女が泣いているのを見るのは数ヶ月振りだろうか。例の旅の最中は不安や焦りからしょっちゅう泣いていて、よく困らされたものだった。「泣けばなんとかなるという訳じゃねえ」と怒ったこともある。しかし、叱っても呆れても結局慰めようとしてしまうのだから、甘い兄だと苦笑いしたくもなる。

「どうしたんだ」

極力優しい声色で、承太郎は問うた。涙で頬に張り付いた髪を退けてやる。それに反応して、長い睫毛の間から覗かせた目はやはり赤い。泣き止むのを辛抱強く待ち、ようやく引き出せたのは、

「……わたし、嫌われちゃったのかもしれない……」

という絶望と焦燥と悲しみが滲んだ言葉だった。
「はあ?」と、つい気の抜けた反応をしてしまった。嫌われたかもだと? そんなわけねえだろ。思わず口をついた言葉が気に障ったようで、彼女は泣きっ面のまま頬をムッと膨らませる。
承太郎には想像し難かった。花京院は、恐らく真生子が自覚している以上にこの娘を大切にしていたし、彼女に対して盲目的になっている部分さえある。多少のことで関係が崩れるとは思えなかった。

「お兄ちゃんに何がわかるの。知らないくせに。ほっといてよ」

──ほっといてよ。
攻撃的な言葉の終わりに添えられたそれは、承太郎を狼狽させるのには十分な一撃だった。一瞬、硬直した後、「そうか」という何でもないように繕う言葉を一つ発した後、のっそりと体を持ち上げ、彼女の刺すような視線が追い立てるままに部屋を後にした。
これほどまでか。
「多少のこと」では収められない程のことが起こったとでもいうのか。
廊下へ追い出された承太郎が真っ先に手に取ったのは、先程まで鳴り響いていた電話機だった。


◆◇◆


家をこっそりと抜け出して、夜の街を闊歩するのは「不良」にとってはお手の物というワケだ。
二十四時間営業のファーストフード店、蔓延する気怠い雰囲気の中で、男二人は小さな椅子とテーブルに腰を落ち着けていた。申し訳程度に注文したハンバーガーやドリンクには手もつけず、赤茶の髪の青年は項垂れている。勿論、こんな不品行を彼の両親が許したという訳では無く、家族が寝静まるのを待って私室の窓から抜け出してきたらしい。

「彼女に嫌われたかもしれない」

長い長い沈黙の後に、花京院はそうぽつんと漏らした。
真生子と全く同じ事を言うものだから可笑しくて、ついフッと微かな笑い声を出してしまう。花京院はジロリとこちらを睨めつけてから、大袈裟な溜息をひとつ吐出した。

「あいつも、嫌われたかも、と同じ心配をしてたぞ」
「え? ……何故?」
「知らん。大体、なんで喧嘩したんだよ。おれは何も聞かされちゃいねーんだぞ」

うん、と彼は腕を組んで唸った。

「……少し言いづらいことなんだ」
「今更言い難いもクソもあったもんじゃねえだろ」
「それはそうなんだが……」

言葉を濁す花京院に、段々と苛立ちすら覚えてくる。まどろっこしい。友人がこんな時間に、こんなところまで出向いているというのに。それとも「彼女の兄」には話せない類のものなのか。色々と嫌な想像が脳裏を過る。帽子の下からジットリと花京院を睨め付けたあと、承太郎は何本目かも分からない煙草に火を付けた。

「まさかとは思うが、浮気──」
「そんなわけ無いだろ!」

言い終える前から凄まじく否定され、勢いに押されてつい閉口した。承太郎にだって、そんなことがあるわけ無いと分かっているのだ。この青年の、恋人への熱の上げ方といったら、見ているこっちが砂糖を吐きたくなるようなものだ。それは十分過ぎるほど分かっていたが、念の為、ちょっと聞いてみただけだ。

「じゃあ何だってんだ。言いづらいことっつーのは」

灰皿の淵に煙草をトンと押し付けながら尋ねると、苛立ちに顔を上気させていた花京院は再び青褪め、だんまりになってしまう。
承太郎は長い長い溜息と共に腰を上げた。テーブルに踵を返すと、「帰るのか?」という動揺した声が後ろから飛んでくる。

「そうだぜ。お前も一緒にな」

振り向くと、花京院は呆れるほどにポカンとした表情で承太郎を見上げていた。


◆◇◆


時計の短針はとっくに頂上を越えている。自宅の照明は周囲の家々の明かりと共に消され、薄暗い廊下に月だけが光を運び込んでいる。

「おい。起きてるだろ」

とんとん、と軽く襖を叩く。やや遅れて、中で布が擦れるような音がした。しばらくして僅かに空いた襖の隙間から、丸い緑色の目がチラと覗く。承太郎を見、それから隣にいる花京院を見つけ、驚いたらしく一瞬室内に引っ込んでしまった。

「ど、どうしたの!? こんな時間なのに!」

ピシャリと閉められてしまった襖の向こうで、真生子は上擦った声でそう叫んだ。承太郎は少し引いたところに立ち、花京院に目で合図を送る。「ええと、」と花京院は一瞬、承太郎に連れて来られて……と言いそうになったらしかったが、「こんな時間に非常識かとは思うけど、どうしても君に謝りたくて」と続けた。

「今日は本当にすまなかった」
「…………」

す、と襖が開いて、真生子は再び顔を出した。
瞳いっぱいに貯めていた涙を、耐え切れないというようにポロポロと零している。それを見た花京院は彼女を抱き締めようと近付くが、真生子はそれを体を捩って避け、愕然とする花京院を不安そうな顔で見上げる。

「典くん…………ごめんなさい。わたしがこんなんだから……」
「ど……どうして。君が謝る必要はないんだよ」

ふるふると唇を震わせ、何度も何か言いかけた後、意を決したようにポロリと言葉を零した。

「……ああいう女の人が好みなんでしょう?」

承太郎は絶句した。
ああいう女の人──とは一体どういうことか。浮気なんかの類ではないと、花京院は先程ハッキリと否定した筈であるし、彼が不貞を働くようにはやはり到底思えない。

「違うんだ、あれは……」
「だって、わたしと全然ちがうタイプなんだもの……色気いっぱいな感じで……む、胸だってすっごく大きくて……!」

と言って、真生子は泣きながら自分の胸を抑えた。呆気にとられる承太郎は蚊帳の外、花京院は慌てて彼女の手を掴んで胸から引き剥がす。

「真生子……! 違うんだ、聞いてくれ」
「でも、だって……だって……」
「あれはたまたまそういう女性がたくさん載ってただけだし、そもそも君だって十分な大きさがあるし、大きければ良いとは思っていないし──」
「おい、ちょいと待ちな。一体何の話をしてる」

早口で捲し立てている花京院を遮ると、赤くなったり青くなったりしていた彼はピタリと動きを止め、嫌に白い顔でこちらに首を向けたかと思えば、汗を滲ませながら耳を染めた。

「……雑誌」
「は?」
「だから、その……君だっていくらか持ってると言ってただろう! エジプトへの旅の最中、部屋のどこにそれを隠すかとか、そういうくだらない話でポルナレフと盛り上がっていたじゃないか……!」

…………ああ、そういうこと。
次に吐き出そうとしていた言葉は喉の奥に吸い込まれた。あまりの脱力感に、何と言おうとしたのかも忘れてしまい、承太郎はそのまま口を噤んで、笑いそうになるのを隠すために帽子のツバを引き下げた。
くだらない、本当にくだらない。
つまりは、部屋に隠していた「そういう」本を、遊びに来た真生子がうっかり見つけてしまい、そこに載っていたボンキュボンの美女たちの写真を見て、「花京院は本当はこんな女性が好みなのだ」と勘違いして自信をなくしたと。それなら花京院が喧嘩の原因を話すのに渋った理由も分かる。彼がさっき自分で言った、旅の最中にポルナレフと盛り上がった低俗な話に、花京院は参加していなかった。正確に言うと彼はその場にはいたが、エロ本なんか読んだことないし興味もありません、みたいなツンとした態度で話を聞いていただけだった。それだから言い出し辛かったのだ。

「そっか……ごめんね、典くん……わたし、今まで誰かとお付き合いしたことがなかったし、自分の見た目に自信がある訳じゃないから、すごく不安になっちゃって……わたし、典くんと釣り合ってるのかな? って。でも、考え過ぎちゃったみたいね」

兄が心の中で呆れていても、この妹はあくまで真面目で素直だ。涙を拭いながらにへら、と笑う。花京院はようやくほっとしたようで、掴んでいた彼女の手を握り直し、いつもそうしているように少し屈んで、真生子と目線を合わせようとした。

「じゃあ、その……怒ってはいないのか」
「男の人なら普通でしょう? 怒ったりはしないよ。ただちょっと悲しくなっただけで……」
「……すまない。君にそんな思いをさせるなんて……もうあの本は処分するから」

彼は今度こそ真生子を軽く抱き締め、優しげに髪を撫でた。少し猫背になった背中に、真生子の腕が辿々しく回る。「典くん」だなんて優しい声で恋人を呼ぶ彼女には、もう傍に突っ立っている兄の姿は見えていないらしい。
もう、これ以上付き合ってられねえ。
思わずそうぼやいて、承太郎は全身の力が抜ける思いで彼らに背を向けた。
結局、承太郎が自分の部屋に引っ込むまで、二人は周囲にハートマークを飛び散らかしながら抱き合っていた。


◆◇◆


そのまま泊まっていくのかと思っていたが、花京院はその後すぐに家に帰ったようだ。真面目な奴だ、と承太郎は改めて感心したくなる。
真生子はすっかり元気を取り戻したらしい。食べるのが大好きなくせに昨晩の夕食すら摂らなかったので心配していたが、今は美味しそうに朝食の白米を頬張っている。前日との機嫌の差に半ば呆れつつも、その様子を安心して見守っている自分はやはり兄として甘いのだろうかと、承太郎は眉を顰めてしまう。

「どうしたの変な顔して」
「ああ……いや。よかったじゃねーか、仲直りできて」

真生子はパチパチと瞬きした後、箸を握り締めたままニッコリと微笑んだ。

「うん。ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃんのお陰ね。心配してくれて嬉しいよ」

そんな一言で呆れもバカバカしさも吹っ飛んでしまうのだから、やはりおれは甘い兄だな──と承太郎は苦笑しながら頷いた。