「…………典くん」

白く曇る息と共に、ぽそりと小さな声で吐き出された言葉が耳に届いて、花京院は目を丸くする。「なんて?」と訊き返すと、彼女は顔を真っ赤にした。

「だから……呼び捨てするのがすごく恥ずかしいから……典くんって呼ぶ」

林檎のような頬を膨らませ、目を背けながら言い直した真生子を、花京院は暫くの間唖然として見つめていた。

例の灼熱の旅から帰還して、もう数週間が経っていた。日本へ戻ってから、晴れて恋人同士となった二人は、こうして登下校を共にするのが日課となっている。他愛の無い話を交わしながらゆっくりと歩いていくのが常だったが、花京院には一つ気になっていることがあった。
あれから真生子がなかなか名前を呼んでくれないのだ。
エジプトのアスワンで、「花京院くん」ではなく「典明」と呼んでくれるようにお願いし、彼女もそれを聞き入れてくれた筈だった。実際、今でも必要な際は「典明」と呼ぶのだが、決まって小声で、頬を赤くして俯いて言うものだから聞き取れない場合も多々ある。彼女の兄である承太郎が分析するところによると、今まで彼氏どころか男友達すらいなかった真生子には、「異性を呼び捨てする」というのに大変な気構えが必要なのだという。
花京院は、苗字ではなく下の名前で呼ばれるということに、自分が「旅の仲間のうちの一人」から「もう少し特別な存在」へランクアップする、という意義を見出していた。

「真生子……最近、名前を呼んでくれないな」

ある日の帰り道、意を決した花京院がそんな風にさりげなく話題を振ると、真生子はビクッと肩を揺らし、黙り込んで俯いてしまった。
そうして、冒頭に戻る。

「ええと、その……典くんっていうのは、君が自分で考えたのかい?」

笑いを堪えながら尋ねると、彼女は小さく頷いて肯定した。
典くん。
余りにも可愛らしい呼び名に、花京院の肩はついつい震えてしまう。一生懸命考えた結果、そう呼ぶことにしたのだろう。あれこれと解決策を思案している真生子を想像し、花京院はフフッと笑い声を漏らした。

「笑わないでよ。真剣に言ってるんだから」

そう言って頬を膨らませる彼女がとても愛しい。苦笑混じりに宥めながら、花京院はさりげなく真生子の手を取った。冷たい風に当たって、石のように冷やされている。指を絡ませると、彼女は僅かに力を込めて握り返してくる。そんな些細な事を、とても幸せだと思う。

「もう一度、呼んでみて」

つい、からかいたくなってしまう。真生子はチラッと花京院を見て、眉尻を下げながら「典くん」と呼んだ。

「いいね。もう一度」
「……典くん?」
「もう一回」
「もうっ、いい加減にして」

真生子は手を振り払うと、ぷりぷりしながら早足で先に行ってしまった。声を出して笑いながら、花京院は彼女を追い掛ける。

「すまない、あんまり可愛いから、つい」
「そんなこと言って」

ぶうと膨らませた頬がべらぼうに愛くるしい。「ごめんって」周囲に誰もいないのをチラリと確認した後で、その頬に軽く唇を押し当てると、真生子は嬉しそうにはにかんで機嫌を良くする。手を繋ぎ直しながら、あのね、と彼女はこちらを見上げてきた。

「わたしはいつも必死なのよ。一緒に歩いてるだけでドキドキしてるのに、手を繋いだり、名前を呼んだり、キスしたりなんかしたら、もう胸がいっぱいになっちゃうから……」

絡ませた指をモジモジと動かしながら、真生子は幸せそうな笑顔を浮かべた。
花京院は、あの死と隣合わせの旅を思い出す。あの頃は自分のことで精一杯だった癖に、彼女の事が気になって、どうしようもなく狂おしい思いに駆られることがあった。傍にいると胸が高鳴って、その手を握りたい、抱き締めたいという衝動を抑え込んでいた。
互いに思いを通じ合わせる事が出来た時、どれだけ幸せな思いだったか。そんな彼女が、今も隣にいる。DIOとの戦いで重傷を負い、死の淵へ引き摺り込まれかけていた花京院を救い出してくれた真生子を、これから一生掛けて守りたいと思う。

「ぼくもだよ」

指を柔らかく握り締めながら、花京院はそっと微笑みかけた。

「ぼくも、必死なんだ」

うそ! と真生子は笑った。

「いつも余裕たっぷりなくせに」
「そんなことないさ」
「そうかな?」

彼女は少し明るくなった気がする。あの頃と比べてよく喋り、よく笑うようになった。そうしていた方がずっと良い。

「でも、たまには典明と呼んで欲しいな」
「大事な時は、そう呼ぶよ」
「大事な時って?」
「……わかんないけど」

その言い様に思わず笑ってしまった。
本当は「典明」でも「典くん」でもどちらでも良いのだ。彼女にとっての特別で居られるならば、どちらでも構わない。
足元を吹き抜ける冬の風に耐えるように、どちらともなく肩を寄り添わせながら、掌の内側にすっぽりと収まるこの小さな手を、もう二度と離すまいと思った。