ガードレールの向こうに広がる、太陽の光をキラキラと反射しながら輝く水面に、真生子はただただ見入っていた。時刻は夕方を過ぎようかという頃で、海水浴をたっぷり楽しんだ人々は続々と撤退し始めている。街へ向かって帰路に着く車達とすれ違いながら、バイクは黙々と目的地を目指していた。
真生子はヘルメット越しに、目の前の大きな背中を見上げた。腰に回した腕にぎゅっと力を込め、顔を寄せても、彼は特に何の反応も示さなかった。
海、行きたいなぁ。
昼過ぎ、海水浴場からの中継ニュースをぼんやりと眺めていた真生子が、団扇を動かしながら呟いたその言葉を、兄が真面目に取り合ってくれたのにはたいそう驚かされた。承太郎はのっそりと腰を上げ、ワンピース姿だった妹に向かってパンツスタイルに着替えて来るように言い付け、自分は納屋にバイクを取りに行った。彼はそうしてポカンとしたままの真生子を家から連れ出し、自分の後ろに乗せて走り出した。
別に、今日本当に、今すぐ行きたい、というつもりで言ったのではなかった。兄もきっとそれは分かっている。彼が出掛ける気になったのは、承太郎自身が海が好きだからだろう。昔から、彼は海の生物に興味があって、部屋には図鑑なんかも何冊かあるのを知っていた。
「誰もいない」
ヘルメットを抱えながら呟くと、承太郎はああと気の無い返事をする。海水浴場のビーチから少し離れた、人気の無い岩場に、バイクは停められていた。
水平線からオレンジに染まった空は、頭上のあたりから菫色へと変化し始めていた。空の色を溶かし込んだ海がさざめいている。靴を脱いで波打ち際に立つと、少し冷たい波が素足を浚う。涼しい海風が吹き付け、暑さに火照っていた体を冷やしていく。心地良かった。
ふと承太郎を振り返ると、彼は岩場にしゃがみこんで何かを覗き込んでいる。真生子は靴に濡れた足を突っ込むと岩によじ登った。
「ひとで?」
軍手をした承太郎が岩の隙間から引っ張り出した物に、つい顔を顰めてしまう。奇妙な黄色い星型の生き物がウニウニと蠢いている。彼がそれをこちらの足元へ放ろうとしたものだから、真生子は驚いて仰け反ってしまった。中途半端に履いていた靴の底がズルリと滑り、足を踏み外してしまう。
海に落ちる。真生子は反射的に目を瞑った。
バシャン、と水の跳ねる音。服に水が染み込み、冷たい感触が広がる。
そっと目を開けると、後ろから、逞しい腕に腰を抱えられていた。頭からひっくり返りそうになった真生子を、承太郎がすんでのところで抱き留めている。足が海へ突っ込んだせいでズボンは濡れてしまったが、そのまま落ちれば全身ずぶ濡れになったに違いなかった。
「何やってんだ」
呆れたような、笑い混じりの声。真生子は頬を膨らませて振り返った。兄は珍しく楽しそうに笑っていた。
「お兄ちゃんが驚かすから」
「まさか落ちるとはな」
「もう!」
見下ろすと、承太郎のスラックスも裾が濡れてしまっている。咄嗟に腕を伸ばして助けてくれたのだ。真生子は無意識に口元を緩めた。
岩場に妹を引き上げ、兄は水平線を眺めている。彼の目の先を追うと、真っ赤な夕陽が海の向こうに沈んで行く最中だった。太陽と反対側の空の淵は、すでに群青へと変色しつつある。濡れた靴の爪先のギリギリを波が浚って行く。
陽光が水面で煌めく様を一頻り眺めた後、真生子はふと、真横に立っている承太郎を見上げた。真っ直ぐに海の向こうを見つめる横顔は、身内の贔屓目なしにも端正で、凛々しく引き締まった眉に父を、深緑の瞳に母をそれぞれ感じ取った。
「何だよ」
凝視していたことに気付いたらしく、承太郎はちらりとこちらへ目を向けた。真生子は我に返ると、
「海の生き物が好きなら……そういう研究する人になるっていうのはどう?」
と誤魔化し紛れに提案してみた。
驚いたことに、兄は案外それが気に入ったらしかった。「悪くねえな」と呟くと、ふいと岩場に踵を返して、波打ち際に沿って歩き始める。真生子は岩から飛び降りると、オレンジのあたたかい光を浴びながら、砂の上に残された大きな足跡を追い掛けていった。