小気味いい包丁の音が、母の背中越しに聞こえてくる。腰の辺りできっちりと結んだエプロンのリボンが時折揺れる。ふんわりと漂ってくる夕食のいい匂いを胸いっぱいに吸い込み、母の側に寄って、「お腹すいたな」と甘えてみた。うふふ、と可愛らしい笑い声にやや遅れ、彼女は小さく振り返った。慈愛に満ちた優しい瞳を向けられると、つられて笑顔になってしまう。この人には、周りをふんわりと和ませてしまう力があるのだ。そんな母が、真生子は大好きだった。
「もう出来るわよ。承太郎を呼んできて」
「はあい」
廊下へ滑り出ると、夏の夜特有の涼しげな風が肩を浚っていく。薄着の真生子には少し肌寒い程だ。薄闇に沈んだ庭園からは、虫の声と池の水と流れる音が軽やかに響いてくる。自室から数部屋分離れた襖の前に立ち、耳を澄ませるが、室内はしんと静まり返って物音一つしない。軽く襖を叩いて呼びかけるが、返事はなかった。
「お兄ちゃん? ご飯……」
静かに襖を開き、部屋を覗いたところで真生子は言葉を切った。室内は暗く、何の明かりも灯されていない。二つ折りにした座布団を頭の下に置き、畳の上にごろりと寝転がっている巨体に、なるべく音を立てないようにして近寄った。彼の頭の横に膝を折り、行儀良く座り込む。ぼんやりと薄暗い部屋を、開いた襖の間から差し込む月の明かりだけが照らし出している。愛用の、改造された学帽は、今は脇に避けられていた。穏やかで無防備な寝顔を、真生子は少しの間黙って眺めていた。兄が眠っているのを見るのは久々の事だった。
よく、似ていない兄妹だと言われる。兄妹唯一の共通点とも言える緑の目は、今は黒々とした長い睫毛に縁取られた瞼に隠されているが、こうして見ると、鼻筋や目元が何と無く似ているような気がしないこともなかった。
緩やかに上下し続ける広い胸に手を添え、軽く揺すりながら、お兄ちゃん、と優しく声を掛ける。何度か繰り返すと、承太郎はようやくピクリと瞼を震わせた。深いエメラルドの輝きが覗き、チラリと傍に座る妹を見る。胸に置いていた真生子の手を退けながら、彼はのっそりと体を起こした。
「起こしてごめんね……ご飯できたか、ら」
無骨な手がぬっと伸ばされて、真生子は驚いて背中を反らせた。髪をくぐり抜けて耳朶をぐいと引っ張られる。鈍い痛みに、つい顔を顰めてしまう。
「な、なに?」
頬に指が触れる擽ったさに慌てていると、承太郎は眠たそうに目を細めたまま、ぐっと顔を近付けてきた。
「校則違反だぜ」
にやりと唇を吊り上げた兄の顔を見て、そこでようやく、彼が弄っているのは耳朶ではなく、そこに嵌った小さな石だと気付いた。
ピアスホールを開けたのは数週間前だった。立派な校則違反だが、普段は髪に隠れて見えないようにしているし、ピアス自体も小さな物で目立たない。それに加え、「あの空条の妹」として教師たちに一目置かれているらしい真生子は、その些細な違反を咎められたことは無かった。
仲良しとは言い難い兄妹だった。兄と顔を近付けて話すことも滅多に無い。それだから承太郎は今の今まで気付いていなかったのだろう。自室で鏡とにらめっこして半泣きになりながら、耳朶に穴を空けた日のあの痛みを思い出し、苦々しい思いになる。
「お兄ちゃんに、校則がどうとか言われたくない」
承太郎の耳朶にも、鈍い銀色のシンプルな飾りが光っている。それを一瞥し、彼の手を軽く払い除けてそっぽを向くと、兄は微かに喉を鳴らして笑ったような気がした。
「煙草やサボりまで真似するなよ」
「…………え?」
彼は平然として立ち上がり、唖然としたままの妹を残して部屋を出て行った。真生子は暫くの間耳を真っ赤にして俯いていた。
バレていた。
兄に憧れてピアス穴を開けたのだということを、承太郎はちゃんと分かっているのだ。
特段に仲の良い兄妹という訳ではない。だが、この無愛想で口数の少ない、不良と周りから囃し立てられる兄が、真生子はやはり好きだった。
彼に手を引かれながら学校へ通っていた小学生の頃も、少しグレ始めた中学生の頃も、会話の減った今でも。二歳上の彼は、ずっと憧れの存在なのだ。
のろのろと立ち上がり、承太郎の大きな背中を追い掛けながら、廊下に吹き込む涼しい風で頬を冷やした。