炉端に停めてあるひしゃげた車の何台かが炎上し、アスファルトで舗装された道路の彼方此方がひび割れ、剥がれ、無残に荒れているのを、日没後の宵闇の中で照らし出している。通りに面している沢山の店のショウ・ウインドウの多くが割れ、中に展示されていた商品と一緒に硝子の破片を撒き散らしていた。
血だまりのそばにしゃがみ込んだ承太郎が掬い上げたものを、花京院は離れた位置に突っ立って見ていた。
ボロボロになったセーラー服は、色の濃さを増している。柔らかなブルネットの髪から液体が滴り落ち、彼女が寝転んでいた場所へぼたりと落ちて波紋を作った。だらりと垂れ下がる小さな手は青白く、承太郎の腕に大人しく抱かれる体は、いつもよりやけに小さく、無機質な印象さえ受けた。
承太郎は花京院に気付き、ゆっくりと腰を持ち上げた。ぶらり、と彼女の細い足が棒切れのように揺れた。


◆◇◆


思えば彼女のことを何も知らなかった。
趣味は何だとか、好きな食べ物は何だとか、日本に帰ったら観たい映画だとか、そんな話は飽く程してきた。ひたすら甘ったるい砂糖の塊のようなケーキを、一人でペロリと平らげられることも知っている。
だというのに、畳の上に並んで啜り泣く、よく見慣れたセーラー服と同じものに身を包んだ少女たちを前にして、花京院は途端に彼女が遠い存在であるような錯覚を覚えた。彼女にはこんなに友人が居たのだと。彼女が普段、日本で「普通の女子高生」をしていることを、花京院は失念していた──気付かなかったと言った方が正しい。
花京院にとって彼女は特別だった。初めてスタンドを理解してくれた仲間の一人であるというだけではない。
「沢山いるクラスメイトのうちの一人」について泣いている少女たちの前で、花京院は急激に頭が冷静になるのを感じながら、無表情で読経を聞き流していた。
葬式が終わり、参列した人々が散り散りになって小声で会話をする中、花京院は部屋の最奥に設えられている祭壇の前へ座り込んでいた。棺の蓋はまだ閉じられていない。膝立ちになって覗き込むと、薄く化粧をした真生子が眠っていた。白い綺麗な着物を着せられ、胸の上で手を組んでいる。色とりどりの沢山の花の洪水の中で、血の気のない肌と着物だけが唯々白い。
ゾッとするほど美しいその姿を、ぼうっと見つめていると、旅の最中に砂漠のテントの中で身を寄せ合って寝た時の事を思い出す。たまたま真生子と隣り合わせになってしまって、間近で見る可愛らしい寝顔に胸が高まった。なかなか眠れなくて、その次の日は寝不足で体調が悪かったことさえも覚えている。
本当に、つい昨日の事のように。


◆◇◆


「抱いてやってくれ」

呆然として立ったまま動けないでいた花京院の前に立ち、承太郎は腕を伸ばして彼女を差し出した。
花京院は頭が真白く塗り潰された状態のままゆっくりと腕を上げ、思考の働かぬまま真生子を受け取った。
力を失った人間の身体は、バランスを少しでも崩せば落としてしまいそうなほど重く、ずしりとして花京院の腕にのし掛かる。それでいてなんだか「軽い」ような奇妙な感覚だ。くたりと揺れた頭が胸に寄り掛かってくる。承太郎は、だらしなく落ちたままだった彼女の腕を持ち上げ、白い手を胸のスカーフの上へ置いてやった。

「こいつはお前を好きだった」

そう言って踵を返してしまった承太郎の表情は、もう伺うことは出来なかった。
花京院はただ、腕の中の彼女から、徐々に、しかし確実に温度が失われていくのを感じながら、ようやく真生子は死んだのだと、そうハッキリと認識した。


◆◇◆


「日本に帰ったら……お母さんの料理が食べたいかな」

風に浚われそうな小さな、しかし確かな声で彼女はそう言うと、照れ臭そうにはにかんだ。

「外国の食べ物は珍しいし美味しいものも沢山あるけど、やっぱりわたしは家のご飯が一番好き」
「バタークリームのケーキよりも?」
「うん」

全部の食べ物の中で一番好き! と彼女が豪語したケーキの名前を引き合いに出すと、ほんの一瞬迷うような仕草を見せたものの、すぐに首を縦に振る。

「あとはね……」
「あとは?」
「ん……やっぱりいいや」
「ホリィさんのご飯だけ?」
「うん。あとは普通に学校に行って、普通の生活に戻るの。日本に帰ったら『普通』に戻りたい」

寂しそうに言う彼女の横顔を、花京院は見ていられずに「そうだね」と相槌を打ってから前へ向き直った。 雲のない空の下で、何処までも延々と続く砂漠が視界いっぱいに広がっている。

「花京院くんは何をしたい?」
「……ぼくも君と同じかな。母さんの料理が食べたい」
「サクランボよりも?」
「そう、サクランボよりも」

真生子がクスッと笑う声が聞こえた。見ると先程までの儚げな表情は消え、いつものようにただ優しく微笑む彼女がいる。花京院はつられてほんのりと口角を上げた。しかしふと、何かに思い当たったように眉根を寄せ、真生子は少し俯いてしまう。どうしたのかと優しく問い掛けると、躊躇いながら恐る恐るといった様子で口を開いた。

「日本に帰っても……会えるよね?」

不安そうな、心配そうな顔で見上げてくるものだから、思わず苦笑してしまう。

「勿論、いつでも会えるさ」

ほんとう、と真生子は顔を輝かせ、それから少し赤面した。
二人揃って日本へ帰れるのだと、そのときは信じて疑ってすらいなかった。


◆◇◆


彼女は望み通り普通の女子高生に戻れたのだろう。もう二度と目を覚ますことのない、変わり果てた姿で。
花京院は変わらず承太郎の友人でいた。定期的に彼の家を訪れ、真生子の写真の前で手を合わせ、彼女を想い続ける。先日まで小さな箱の中に収まっていた彼女は、今は冷たい石の下で眠っている。そちらにも足を運んだ。彼女が好きだと言っていた花と一緒に。

「花京院君は、真生子のことをほんとに大切にしてくれていたのね」

いつだったか、ホリィに涙ぐみながら言われたことを思い出す。

「真生子も、きっと花京院君のことが大好きだったわ」


◆◇◆


痛みすら消えて、死という深淵へと向かいながら刻々と薄れゆく視界の中、赤いスカーフが目の前で揺れるのを、花京院は確かに見た。

「典明」

優しく、鼓膜を擽る甘い声。囁くような微かな声は、通りの喧騒と給水管からとめどなく降り注ぐ水の滴る音に掻き消されることなく耳に届いた。
世界に二人しか存在していないような、そんな愚かしい錯覚。抱き締める彼女の腕は細く、押し当たる胸は熱く柔らかかった。
ぽっかりと穴が空いて感覚を失っていた腹が俄かに温かくなり、損傷した部分だけ急激に細胞が活性化しているような感覚を覚えた。

「ごめん、ごめんね」

どうして謝るんだ。

「ありがとう」

どうして。

「あなたが大好きよ」

ぼくはまだ何も伝えていない。

「さよなら」

真生子、行くな。
声にならない叫びは微かな吐息にすらならず、指一本も動かせぬまま、ビルから舞い降りる彼女を引き留めることは出来なかった。
ようやく動けるようになった花京院が這うようにしてビルから降り、フラつきながら通りへ出た時、既に全ては終焉を迎えていた。
DIOを倒した。ホリィも回復した。真生子を始めとする多くの者の命を犠牲にして。


「承太郎、ぼくは」

腕の中で動かない彼女を抱き締め、震えながら、花京院はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。頬を伝う涙が顎から滴り、真生子の白い頬へ落ちた。

「ぼくは……ぼくも、好きだったんだ」

返答は無かった。ただ、巨大な背中越しに、微かに震えた溜息が吐き出されたような気がした。