「……申し訳ありません」
足元に跪き、頭を低くする部下を一瞥して、DIOはフンと鼻を鳴らした。
暗い部屋の中央に鎮座するベッドのシーツには、彼方此方に赤黒い染みがこびり付いている。皺くちゃになったシルクの布地に触れると、既に温もりは消え失せ、ここに囚われていた娘が逃げ出してから相応の時間が経過していることを示していた。
彼女の行動を制限していた、ベッドの柱に括られた鎖の先には、鋭利なもので切断されたような切り口が残されていた。床に転がった短い蝋燭の火は既に消えているが、毛足の長い絨毯を僅かに焦がした跡が見受けられる。DIOは低く笑った。
「蝋燭の僅かな火から蓄光していたな」
彼女のスタンドは非力で闘う力を持たないが、外部から取り入れた光を体内に溜め込み、放出するという特殊な性質を持つ。光を細く、強く放てば、レーザーのように鋭い刃となって、鉄すらも簡単に切断してしまう。
「すぐに、後を追い掛けて連れ戻します」
「ヴァニラ・アイス」
数多くの部下の中でもとりわけ忠誠心が強く、非常に凶暴なスタンドを持つ男は、頭を下げた姿勢のまま短い返事をした。
「毎日、蝋燭を取り替えるようにと、執事に指示したのは、一体誰だと思う」
腰を上げかけていた彼は、ピタリ、と動きを止めた。
実に、愉快だ。
くつくつと喉を鳴らしながら、DIOはベッドに踵を返した。ヴァニラは地面に膝を突いたまま黙っている。鎖同様にノブが壊された扉を潜り抜けると、漆黒に染まった廊下が真っ直ぐに伸びている。靴底を低く鳴らしながら、DIOはゆっくりと闇の中へ溶け込んでいった。
◆◇◆
深刻そうな顔をした看護婦が部屋から出てくるのを、花京院は固唾を呑んで見守っていた。
真生子を保護した──その連絡を受けたのは、負傷のためにアスワンでひとり静養していた花京院が、財団のヘリでカイロへ到着した直後だった。DIOの館の調査に奔走しているジョセフ達とはすぐには連絡がつかず、花京院は彼女が収容された病院に一足先に向かうこととなった。
院内には妙な雰囲気が漂っていた。怪我は「命に別状はない」とは聞かされている。しかしピリピリと張り詰めた嫌な空気が、病室の周辺を行き来する顰め面の医師達から発せられている。廊下を通り過ぎた財団職員が持っていたボロボロの布切れが、彼女のセーラー服だと気が付いた時には、花京院は戦慄せずにはいられなかった。
そして、頭の中を駆け巡った、最悪で最低の、吐き気を催すような予感は、不幸にも的中してしまった。
花京院が入室を許されると、気を利かせたらしい看護婦たちが次々と部屋を後にし、財団が借り上げた一室は奇妙なまでに静まり返った。
真生子は窓際のベッドの上に座っていた。見慣れたセーラー服姿ではない、恐らく急遽用意されたのであろう、サイズの合わない白いシャツを着せられている。表情は髪に隠れて伺えないが、僅かに覗く頬は普段以上に青白い。足音に気付いたのか、彼女は大儀そうに首を回してこちらに視線を向けた。
花京院くん。
色褪せた唇が、微かに名前を紡ぐ。大きな目がゆっくりと見開かれ、今にも泣き出しそうに、悲痛に歪んでいく。
「こないで」
ベッドに寄ろうとすると、真生子は小さな声でそう制した。
「真生子」
「……見られたくない」
構わず傍にしゃがみ込み、彼女の白い手にそっと触れる。真生子は過剰なまでにビクリと肩を揺らし、驚いたようだった。
シャツの袖の下の肌には包帯が巻かれ、覆い隠されている。首に掛かる柔らかな髪の奥、シャツの襟で隠し切れなかった場所に、赤黒い痣のようなものがチラリと見えた。
後頭部を強く殴られたような衝撃が体の中を走り抜ける。ある程度は予想していたとはいえ、確信を持たざるを得ないような証拠を目の前に突きつけられては、勃然と込み上げる怒りを抑えることが出来なかった。
「……DIOにやられたのか」
暫しの沈黙の後、吐くように絞り出した声は震えてしまっていた。
手足は驚くほど冷たいのに、頭には血が上り、頬は激情に熱されている。耐え切れぬ憤怒に、心臓が唸りを上げ始める。触れていただけのつもりだった彼女の手を、いつの間にかきつく握り締めてしまっていた。
真生子は何も言わない。何も言いたくないに違いない。
ポタポタと透明な滴がシーツの上に落ちる。黙って泣き始めた彼女はあまりにも小さく、脆く、今にも壊れてしまいそうに儚く思えた。
「触っちゃ駄目」
涙声の懇願と共に、握っていた手を引き抜かれ、花京院は我に返った。例え仲間であろうとも、今は「男」に触れられることを恐ろしいと感じてしまうのかもしれない──それに気付かなかった自分に舌打ちしたくなる。
しかし、真生子が言うのはそういう事ではないようだ。
「汚い、から」
彼女の頬を滑り落ちる涙は、止まることなく勢いを増してゆく。
花京院は思わず息を詰まらせた。何か言おうと試みると声が震えてしまいそうになる。あまりにも悲痛で、憐れだと思った。どうにかして、癒してやりたい。
「……そんなことない」
なんと言葉をかけようかと散々思案し、やっとの思いで呟いた二言目は、そんな在り来たりの慰めの言葉だった。
「ぼくに触れられるのは、怖いかい?」
「ううん……違うの。でも……わたし」
「君は汚くなんかない」
ベッドの淵に座り直し、花京院は再び彼女の手を握り締めた。真生子は一瞬戸惑ったようだが、そろそろと握り返してくる。細い指はやはり冷え切っていて、同じように冷たくなった花京院の手では温めてやることは出来ない。
「……ほんとうに?」
真生子のか細い声に目を上げると、顔面蒼白のままこちらを見据える彼女と視線がぶつかった。
「花京院くん」
あのね。そう続けられた細い声に、花京院はただ頷いてみせた。
「花京院くんが……きれいにしてくれる?」
濡れて歪んだエメラルドから、一粒二粒、また雫が溢れて落ちる。
──壊れてしまいそうだ、と思った。
いや、もう、とっくに壊れてしまっているのかもしれない。元々、精神の強い娘ではない。彼女が孤独に耐えながら数々の屈辱に耐えた時間と日々を思うと、胸の奥にズッシリ溜まったどす黒い感情が再び憤怒の熱を持ち始める。どくどくと音を立てて、血液が全身を駆け巡ってゆく。乾いた唇を舐めてから、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
「ぼくでいいのか」
背筋がざわつくのを抑え込み、彼女に悟られぬように出来る限り優しい声色で尋ねる。
真生子はぎこちなく唇を笑みの形にしてみせた。「あなたがいいの」と呟いた言葉が終わらないうちに彼女を掻き抱いて、青褪めた唇を優しく塞ぎ止めた。
◆◇◆
治癒の力を持つ彼女のスタンドは無意識下でも自然に働く。包帯の下に無数に付けられた噛み跡や内出血、裂傷は、既に治癒しつつはあるものの、依然として彼女の肌の上で存在を主張し続けていた。
その一つ一つに丁寧に唇を落とし、吸い上げてゆく。浄化し、他の男の痕跡を消して自分を上書きする為に。
この柔らかい肌にDIOの手が、舌が触れたということを忘れさせてやりたい。全身に丹念にキスを振る舞い、撫で、摩る。隅々まで、手で、指で、舌で。真生子の身体は、全ての愛撫に敏感に反応を見せる。涙を零しながら花京院を見下ろす表情は切なく、頬は上気し始めていた。
DIOへの激しい怒りが、想いを寄せていた少女の純潔を穢されたという嫉妬が、それが自分でありたかったという悔しさが、そしてこんな形でも彼女を抱けるという醜い悦びが心の中でグチャグチャに混ざり合い、どうしようもなく欲望を昂ぶらせてゆく。
「……気持ちいい?」
溶けた場所を指で解しながら訊くと、真生子は真っ赤に染まった顔で何度も頷いた。はあはあと息を吐き出す様子はあまりにも扇情的で、可愛らしい。その唇を啄ばみながら、細い足の間に腰を割り込ませる。
真生子の身体は簡単に花京院を受け入れ、目が眩むような快感が体の中心から広がってゆく。熱い息を吐き出すと、彼女の震える指が伸びてきて頬にそっと添えられる。
「……好き」
「ぼくも好きだよ」
「花京院くん」
「真生子……」
「花京院、くん」
瞼にそっと、柔らかな手が触れる。目の傷跡を彼女がなぞる。
悲しそうに細められた瞳に笑いかけ、ゆっくりと体を揺さぶる。辛いことも嫌な記憶も、今は全て思い出させてやりたくない。ただ、甘く痺れるような快楽に一緒に飛び込んで溺れたい。それが彼女も望むことだというのなら。
「ずっと……あなたにこうされたかった」
固く抱き締め合いながら、漏れ出すように呟かれたその言葉に、やるせない切なさと狂おしいまでの愛しさが込み上げてくる。自分まで泣いてしまいそうになるのを、花京院は目を瞑って堪えた。心底、この哀れで幼い娘を愛していたことに、改めて気が付いた。
◆◇◆
「ここで、待っているんだ。全てが終わった後、必ず君を迎えに来るから」
彼女の肩の上までシーツを引き上げながら、花京院はそう言って真生子を宥めた。
「……必ず?」
睫毛を震わせながら、彼女は不安そうにそう問うた。
思わず苦い微笑みが漏れそうになる。自分でそう口に出しておきながら、無事で帰って来られるという保証は何処にも無いのだ。それでも、彼女を安心させるように、花京院は力強く頷いた。
「だからそれまで、ここでゆっくり休んでいるんだ」
「……」
ぎゅっと制服の端を引っ張られる。真生子は泣き腫らした目に再び涙を滲ませていた。行かないで。切なく細められた瞳がそう訴え掛けてくる。
──このまま、そばに居てやれたら。
今の彼女にはそれが必要だ。それは、痛いほど分かっている。
しかし、花京院はどうしても行かねばならなかった。
「すまない」
学ランを掴む手をそっと剥がすと、ベッドの上に手を突き、上体を彼女に覆い被せた。そっと触れるだけの口付けを落とす。長い睫毛に縁取られた瞳が湖面のように揺れるのを、間近でじいと見つめる。
「ずっと君のそばに居たいが、ぼくはケリをつけなくちゃならない……君が受けた苦しみを、ぼくたちが代わりに晴らしてくる」
「花京院くん……」
不安を滲ませた声で名を呼ばれ、胸の奥がグッと詰まったように苦しくなる。
「絶対に……戻ってくる?」
「ああ。約束だ」
「約束……」
優しく小指を絡ませ合うと、真生子は漸く硬い表情を緩めてみせた。
◆◇◆
眩しいまでに輝く白い太陽は西へ追いやられた。辺り一帯に細く張り巡らされたエメラルド・グリーンが、天上の星々と街明かりを反射して鈍く煌めきを放つ。その様子を、塔の上に立った花京院は黙って見下ろしていた。
「なあ……そうだ、花京院。真生子の様子はどうだった」
法王の結界の中央、緑色の輝きの中に、波打つような金の髪を持つ男は囚われている。訊くと、DIOはうっすらと下卑た笑みを浮かべてみせた。
途端に、カアッと頭に血が上ってくる。握りしめた拳がブルブルと震え出す。病室で泣いていた真生子の姿がハッキリと脳裏に浮かび上がってくる。
怒りに戦慄く花京院を可笑しくてたまらないとでもいうように、DIOは小さく喉を鳴らした。
「何とも、可愛らしかったぞ。お前の名前を呼びながら、為す術もなく泣き喚く姿は──」
「黙れッ! それ以上彼女を侮辱することはぼくが許さん!」
言葉を遮るように叫び、振り上げた腕に共鳴するように、ハイエロファント・グリーンの触脚に光が走った。
「喰らえ、DIOッ! 半径二十メートル──」
──────。
────。
◆◇◆
砂色の街の頭上を覆う空は、深い紺青に染まっている。ぽっかりと浮かんだ白い月の光が、柔らかくぬるい風と共に、開け放たれた窓から病室に差し込む。
遠くから、救急車のサイレンと、ヘリコプターの飛行音が聞こえてくる。
何もかも関係ない。彼の言葉を信じているから。無事に戻ってきて、もう一度あの優しい胸に抱き締めてくれるのだと、これっぽっちも疑っていないから。
扉の外が、俄かに慌ただしい。
約束、忘れないでね。
待ってるから。
ずっと、待ってる。