インドのカルカッタへ向かうクルーズに乗船してから、二度目の朝。船旅の最中、仲間達は特に行動を束縛されず、それぞれ自由に過ごし、各々の方法で暇な時間を潰していたが、食事だけは皆で一緒に摂る決まりとなっていた。
朝の早い真生花は一番乗りで待ち合わせ場所のラウンジに到着し、ソファに腰を下ろして窓越しの大海原を眺めていた。灰青色の水面が朝の光を反射し、キラキラと輝いている。海の上へぼうっと視線を投げていると、背後から「おい」と無愛想に声を掛けられ、真生花は満面の笑みで振り返った。

「承・太・郎! おはよう」

弾けるように立ち上がり、むぎゅうと腕に絡み付いてみると、彼は面倒臭そうに眉間に皺を刻み込んだ。

「離れろ、このアマッ」
「まあ! お姉ちゃんに向かってアマとは何よ! さ、おはようのキスして」
「うっとおしいッ! くっ付くな!」

嬉しい癖に照れちゃって、と真生花はほくそ笑む。本当はお姉ちゃんの事が大好きだってことちゃあんと分かっているんだからね──と腕をホールドする力を強めると、彼も姉を引き剥がそうと躍起になり始める。振り払われぬよう足に力を込め、頬を彼の肩に押し付ける。
二人でグギギと踏ん張っていると、後からやってきた旅の仲間達が半笑いで視線を送ってきた。毎朝毎朝繰り返される「いつものこと」として受け流しているらしい。

「あっ、おじいちゃん!」
「おはよう、真生花。今日も元気だのぉ」

承太郎から遂に剥がされてしまった真生花は、今度はひょっこり現れた老人に駆け寄る。ぎゅっと抱き着けば、強請らなくても頬に挨拶のキスをしてくれる。丁寧に手入れされた髭の上にちゅっと唇を押し当てると、ジョセフは孫が可愛くて仕方が無いといった様子で頬を擦り付けてきた。


◆◇◆


朝食を終えた後、真生花は一人でそのままラウンジに残り、窓際の席でコーヒーを嗜んでいた。皆は船室に戻っただろう。船内を彷徨いて時間を潰している者もいるかもしれない。カルカッタまでは後二日ほど掛かるのだという。やる事が無い。
このどうしようもない暇な時間が、逆に真生花の心の焦りを加速させていた。
手元のカップの中に視線を落とす。焦茶色の表面に、情けない顔をした自分が映っている。一人になると、途端に気の抜けた顔になってしまう。思わず溜め息が漏れた。
こうしている間にも、日本に残してきた母は病床で苦しんでいるのだろう。本来ならば初日に利用した航空機で、一日足らずでカイロまで行けた筈だったのだ。それが、もう十日程経つというのに、まだインドにすら至っていない。
仲間の前では元気に振る舞うように心掛けてはいるものの、そろそろ空元気を保つのにも疲れてきた。
ふと、テーブルに影が落ち、真生花は顔を上げた。

「ここ、空いてるかな? マドモアゼル(お嬢さん)」

銀髪を逆立てた陽気なフランス人が、そんなふざけた台詞と共にウィンクを送ってきた。彼は向かいの席に腰を下ろし、ウェイターに紅茶を注文する。真生花は「まあ」とのんびりした声を出した。

「ポルナレフ。さっきの女の子たちにフラれちゃったから、わたしの所へ来たのね?」

先程、ラウンジの出入り口付近で、彼が旅行者の女性グループに声を掛けているのを目撃したのだった。ポルナレフは「フラれてねーよ」と唇を尖らせる。その様子がおかしくて、真生花はクスッと笑った。
しかし、運ばれてきた紅茶のカップに手も付けず、ポルナレフは熱心に視線を送りつけてくる。あまりにじいと見詰められて、始めは彼をきょとんと見返していた真生花もきまりが悪くなってしまう。恥じらい隠しにコーヒーに口を付けるが、ポルナレフは何か考えているようで、まだ湯気の立つダージリンは放置されていた。

「なあ、真生花」

スッと自然に手を重ねられ、真生花はハッとした。

「お前、無理してるんじゃあないか?」
「む……無理って?」

反射的に手を引っ込めると、ポルナレフは一瞬面食らったような顔をした。「あ……ごめんなさい。驚いちゃって」と慌てて弁明してから、「無理なんてしてないわよ」と笑顔を作った。

「嘘つけ。さっきだって、溜め息なんか吐いちまってよ」
「やだ。見てたの?」
「ああ、それにお前、一人になった途端何か考え込んで、苦しそうな顔するじゃねーか」

真生花はギクリとした。こちらを見据えるポルナレフの空色の瞳は真剣そのものだった。

「それは……あなたの気のせいよ」
「いーや。おれも妹がいたから分かる。承太郎の前では辛そうな所を見せたくないんだろ?」

図星を突かれ、真生花はうっと唸ってから顔を伏せた。
ポルナレフが旅の仲間に加わってから、まだ一週間と少ししか経っていない。それでも、共に時間を過ごし、幾つもの危険を乗り越えてきた中で、彼が大変な節介焼きで、軟派なように見えるが紳士的な性質を持っていることは分かっていた。真生花が姉であるように、兄であったポルナレフには、下にきょうだいを持つ者にしか分からぬ共通意識のようなものを感じている。きっと彼も同じ感覚なのだろう。
仲間達の前では勿論であるが、弟である承太郎と、真生花を母に似ていると評する祖父の前では、やはり特に気丈に振舞っていたかった。肉親二人は、時折真生花にホリィの姿を重ねていることに気付いていた。周りの者を和ませる性質をもつ、あの明るく優しい母に少しでも似ていると言うならば、その役割を自分が担うべきだ。暗く沈み込んで悩んでいる所を他の者に見せては、全体の雰囲気も澱んでしまう。そう思って過剰に明るく振舞う時もあった。なかなか進まぬ旅路に焦り、いつ敵に背後から襲われるか分からないという恐怖に囚われていても。
「無理をしている」というポルナレフの指摘は的を得ている。耳が痛かった。それでも、真生花はどうにかして口元を笑みの形に作る。

「……やだわ、ポルナレフったら! わたしを口説こうったってそうはいかないん、だか……ら、」

もう一度手を掴まれて、言葉は尻すぼみになって消えてしまった。彼の手は男らしく大きく骨張っている。ぎゅっと心臓が跳ね上がる感覚をおぼえ、真生花は小さく仰け反った。

「真生花、おれは真面目に心配してんだぜ」

真摯に見詰めてくるクリスタルブルーの眼に、真生花は狼狽えていた。
椅子から身を乗り出した彼の顔が、こんなにも近くにある。かっちりとセットした銀髪が美しいとは思っていたが、眼を縁取る睫毛までもが銀色に輝いていることに気が付いて、一瞬思考が停止して見惚れてしまった。

「辛いなら辛いって……苦しいなら苦しいって言えよ。仲間だろ? おれ達」

う、うん。と上擦った声でした返事に、彼は一応納得したらしかった。
ぐいっと一気に紅茶を飲み干したかと思うと、ぼうっと見上げたままの真生花の腕を引いて立ち上がる。

「ここじゃなんだから、おれの部屋でゆっくり話そうぜ」
「…………」

また、パチリとウィンクひとつ。
じっとりした視線を投げかけ、真生花は手をさりげなく振りほどいた。

「なーによ。結局、そういうこと?」
「えっ!? いや、今言ったことは全部本心だぜ? マジで……真生花、おいッ」

さっさと歩き出した真生花の背に、慌てた声が飛んでくる。わざと機嫌の悪そうな態度を見せて、ポルナレフの狼狽ぶりを一頻り楽しんでから、真生花は唇を綻ばせて振り返った。

「冗談よ、ちゃあんとわかってるわよ。さっ、行きましょ」

ぐいと彼の腕に自分のそれを絡め付ける。ポルナレフは一瞬間抜けな表情を浮かべたが、すぐにピッと背筋を伸ばし、気取った仕草で真生花の腰に手を添えた。

「真生花、オメーよく見るといい女だな」
「ポルナレフも、近くで見ると結構ハンサムよ」
「おいおい、惚れちまったか~?」
「ええ、好きになっちゃったかも」

彼の真似をしてパチンと片目を瞑って見せると、豆鉄砲を食った鳩のようにキョトンとするのが可愛らしかった。ケラケラと笑い声を上げると、からかわれたのだと気付いたポルナレフが鼻の頭を赤くして憤慨し始める。
波に揺れる通路の奥へ、二人は縺れ、ふざけ合いながら歩いて行った。