ナタラは猫のような人だった。
DIOの膝に乗って甘えたり、テレンスやアイスの後を黙ってついてきたり、かと思えば、誰にも行き先を告げず気紛れに外出して何日も帰ってこないことがしばしばあった。楽しくてついつい遠くまで行ってしまって、気付いたら朝になったので帰れなくなっていた──とひょっこり戻ってきた彼女は肩を竦める。
あまりにも不用心すぎる。いくら不死身の吸血鬼とはいっても幼い少女の外見をしているのだから、夜中に街を徘徊していては不埒な輩に遭遇してしまうこともあるかもしれない。そう言って諌めても、ナタラはいつもはぁいと間延びした返事をするだけだ。容姿の美しさはDIOそっくりのくせして、中身の方は全然似ていないのだ。
少し年の離れた兄妹であるためか、人間だった頃から兄に甘やかされて育てられたらしい。DIOが居ない百年間はずっと部下に世話を焼かせていたというが、彼女がエジプトにやって来てからは、その役目は専らテレンスのものになった。
夕方、日が沈んでもベッドから出てこない彼女を、シーツの山の中から探し出して浴室に放り込み、その間にベッドメイキングと部屋の掃除、新しい服の準備。髪から雫を垂らしながら出てきたナタラの頭をタオルでゴシゴシとやってから、ドライヤーと櫛でブラッシング。この、主君の妹は、全く手が焼ける。一人でも出来るというので試しにやらせてみたこともあるが、結局テレンスが最初からやり直す羽目になったので諦めた。
その日も例に漏れず、普段の執事業を中断してナタラの支度を手伝っていた。いつものように浴室へ連れて行ってから、クロゼットに顔を突っ込んで、今日のお召し物はこれでもないあれでもないとやっていたところ、扉の向こうからくぐもった声で名前を呼ばれた。

「どうなさいましたか? 失礼します」

磨りガラス越しに、きちんとシャワーカーテンの向こうに彼女の姿が隠れているのを確認してから扉を開ける。
カーテンの隙間から白い細腕が伸びて、何かを探すように忙しなくパタパタと動いていた。

「テレンス、シャンプーをとって頂戴。どこかに置き忘れちゃったのよ」

確かに洗面台の上に備え付けられた棚に、一本だけ小瓶が取り残されている。なぜ他の石鹸や何やらはカーテンの向こうに持って行ったのに、これだけを忘れてしまったのか。首を傾げながら、細やかな装飾の施された瓶を手に取る。手を広げて待っているナタラにそれを手渡すと──

「……!?」

あり得ない程強い力で腕を引っ張られた。
テレンスは足を滑らせ、そのまま頭から思いっきり浴槽に身体を突っ込む羽目になった。ばっしゃん、と派手に水が飛び散る音に混じって、最高に機嫌の良さそうな笑い声が耳に飛び込んでくる。必死に頭を水面からあげると、満面の笑顔のナタラと視線がぶつかった。肩までバブルバスに浸かっているから良いものの、彼女は今素っ裸で、その上に覆いかぶさるような体勢になってしまっている。二重に驚いて慌てふためいてバスタブから這い出ようとするが、未だに腕を掴まれたままで許されない。
──なんなのだ、これは、この仕打ちは。
驚きは次第にふつふつとした怒りに変わっていく。一体どういうおつもりですか、と口を開きかけたところで、今度はぐいと頬を手で挟まれてしまった。

「ねえ! テレンスのこのしましまがメイクなのかタトゥーなのか気になってたの! でも、メイクだったのね」

顔をギリギリまで近づけられて、テレンスは狼狽えた。そんなこと口で直接聞いて下されば、と喉まで出かかったが言葉にはならなかった。ナタラのキラキラした楽しそうな目が、それを縁取る濡れた長い睫毛が、鼻先数センチにある。
思わずごくんと唾を飲み込む。さっきまでの怒りはどこかへ消え去り、今度は別の感情が湧き上がってきて、テレンスは慌てて頭を後ろへ引いた。ナタラは不思議そうに首を傾ける。

「どうしたの?」
「どうしたの、じゃあありません……ナタラ様、少々おいたが過ぎます」

ようやく浴槽から体を引っこ抜きながら、テレンスはつい溜め息を漏らした。多めに用意していたバスタオルを一枚取り、ヘアバンドを外して髪を拭く。鏡を見ると、鼻の頭の縞模様が薄くなっていた。これはみっともない。カーテンの留め具がシャラシャラと音を立てたので、薄目で振り返ると、少しだけ開けた隙間から、ナタラが申し訳なさそうに顔を覗かせていた。

「怒った?」
「…………」
「テレンス……怒ったの?」
「いいえ」
「ごめんね……」

しょんぼり、という擬態語がピッタリの様子だった。今は猫というより飼い主に怒られた仔犬のようだ。さっきまで元気良く振っていた尻尾が、ダラリと力無く垂れ下がっている。
テレンスは狼狽してしまった。今まで散々面倒をかけられて、少しキツ目に宥めたこともあるが、こんな顔をされたことはない。普段なら、心のそこからは申し訳ないなどと思っていなさそうなニコニコ顔で返事をされるだけだ。それなのに今日のこの態度はどういうことか。
ついつい、伏せがちな睫毛に目がいく。顎から滴る水滴。カーテンの隙間からちらりと覗く白い肩や鎖骨。そこから下に視線を下げようとしたところで、テレンスはハッとなって頭を振った。今、何を考えていたのか。相手は雇い主の妹で、しかも百年以上を生きた吸血鬼で、それで──何だか、頭が痛くなってきた。

「別に……こんなことで怒ってなんていません、本当に。着替えてきますから、その間にお風呂を済ませてください。今日のお召し物はベッドの上に御座いますので」

つい早口で追い立てると、ナタラはうんうんといつに無く素直に頷く。それを複雑な気持ちで見つめた後、テレンスはタオルを被ったまま、足早に彼女の私室を後にした。


◆◇◆


「ナタラ、おれの部下で遊ぶのはやめろ」

音も無く部屋に入ってきた兄に、鏡台の前に腰を下ろしていたナタラは肩を竦めて返事の代わりにした。廊下の途中で、べしゃべしゃに濡れたテレンスを見かけたのだと言う。髪はすっかり乾いて、櫛を通すと引っかかること無くさらさらと流れる。今日はどんな髪型にしようか考えていたところだったのだが、DIOが髪を一房手に取って指で弄ぶので、いつまで経っても支度ができない。ナタラは溜め息混じりに櫛を置いた。

「一人でもきちんとできるのではないか」
「あのね、小さな子供じゃないのよ?」

それを聞いたらあいつはどんな顔をするだろうな、と言ってDIOは苦笑した。
本当は、風呂に入るのも髪を整えるのも、全部自分でやったっていい。それをしない理由はただ一つで、単にあの執事のことが気に入っているからだ。少し呆れた様子で、それでも手を抜かず丁寧にブラッシングして髪を結ってくれる。その彼の真剣な顔を鏡越しに眺めるのが、ナタラは好きだった。
ただ、今日はちょっとからかい過ぎたかもしれない。呆れられるのは構わないが、怒らせてしまうつもりはなかった。それにしても、バスルームを出て行く時のあの慌てた様子はなんだったのか。ひょっとすると、あれは照れていたのかもしれない。そう考えると、彼のことが急に可愛らしくも思えた。

「ねえ兄さん、邪魔しないでね」
「おれが何を邪魔するって?」
「テレンスと仲良くしてても怒らないでねってことよ」
「お前が誰と何をしようと構わん。それよりも朝になっても帰ってこないというのはもうやめろ。肝が冷える」
「何よ、うそつき」

ちっとも心配してないくせに、と頬を膨らませる。
別に、心配される必要も無い。百年も人間の社会に溶け込んで暮らしてきたのだ。太陽との付き合い方も十分分かっているし、ちょっとやそっとのことでは死なない。
そんな自由気ままな妹のことを、兄はちゃんと分かっているというだけだ。
DIOは珍しく声を出して笑った。

「しかしお前が帰ってこない時の、あの焦る顔を見せてやりたいものだ」
「焦る? テレンスのこと?」

彼は返事をしないで、代わりに鼻をフンと鳴らして部屋を出て行った。部屋に取り残されたナタラは、もう一度鏡に向き直り、やっぱり彼が戻ってきてから髪を結って貰おうかしら、と唇の端を吊り上げた。