赤い地面が照り返す光と熱が次々と汗を生み出すので、奈保子はハンカチを握り締めている。いくら低緯度の地域とはいえ、こんなに暑いものだとは。東京なら今時期は、朝は冷たい土の上に霜が降りているくらいだというのに。何処と無くぼんやりする意識を現実に手繰り寄せ、軽く頭を振った。
とても人の多い町だ。狭い場所にたくさんの人が住んでいるらしい。少し前を行く、屈強な仲間たちの後を追いながら、奈保子は何度も人の波に飲まれそうになっている。彼らは大柄だから流れを切るように進めるけれど、普通の背丈しかない痩せた少女には難しい。定期的に誰かが振り返って気に掛けてはくれるが、あまりに人が多いので、流れに逆らって立ち止まり待っていてはくれない。それは仕方がない。
「そこのお嬢さん!」
そんな呼び声と共に、ふと道端から伸びてきた手に腕を取られ、心臓が跳ね上がった。慌てて振り返ると、ニコニコと人の良さそうな顔をした商人の男が手を掴んでいる。奈保子は曖昧な愛想笑いを浮かべながら、なるべくイヤミのないような仕草で手を引っ込めようとした。
「ちょっと見ていかないかい? お土産にもピッタリの良い品ばかりだよ」
「あ、いえ、わたしは……」
「ちょっとだけでいいからさ!」
「ご、ごめんなさい、急いでて」
ちょっぴり申し訳ない気持ちになりつつも、強引な勧誘を振り切る。
慌てて前へ顔を向けた時、そこにあったのは見慣れぬ異国の人波だけで、先程まで見失わぬよう必死に追いかけていた長身の男たちの姿は見当たらなかった。
……はぐれてしまった、こんな短時間で。さあっと頭から血が引く。先程まであんなに暑くて仕方がなかったというのに、ヒヤリと冷たいものすら背中を降りてくる。
不安からパニックを起こさないように深呼吸をしてから、人混みの中に飛び込んだ。強引に進もうとする異国人の娘に嫌そうな視線を向ける人たちに謝りながら、行き交う人々の間をくぐり抜け、辺りを見回しながら仲間の姿を探す。こういう時、長身の承太郎やジョセフは良い目印になるのだが、どこを見上げても二人の帽子を見つけることができない。確かにこの道を真っ直ぐ歩いていた、まだ近くにいるはずだ。向こうも、きっとそろそろ奈保子がいないことに気付いている。すぐに見つかる筈だ──そんな不安に溢れている少女の腕を取ったのは、やはり頼もしい仲間たちではなかった。
「君、一人? 旅行者かい?」
ぐいと引っ張られるように道端に体を寄せられ、奈保子は文句を言おうと首を回した。
現地の若い男たちが数人、ニヤつきながら路地の前の人目につきにくい場所に陣取っている。よりにもよって、こんな面倒な連中に捕まった。心の中で溜め息を吐きたくなる。
「今、急いでいるので」
「もしかして誰かを探しているのかい? おれたちも一緒に探してあげるよ」
「さ、さわらないで」
下心剥き出しで肩に手を回されそうになり、つい力を込めて振り払ってしまう。途端に男の顔色が変わった。「中々生意気な女じゃねーか」と舌打ち混じりに距離を詰めてくる。マズったかも、と奈保子は軽く身構え、後退りしながらスタンドを呼び出した。相手は三人、スタンド使いでもなんでもない一般人だ。もし力にものを言わせようと襲いかかられても、自分一人でどうにかできないこともない筈だ。だが、それでも足は軽く竦み、膝にうまく力が入らなくなってしまう。
ボッ、と聞き覚えのある音が耳に届いて、奈保子は目の前に立ちはだかる男達の向こう側を見た。橙の温かい光が一瞬チラつき、あっと思った時には一人の男の服の裾に小さく火が点いていた。
「──うわっ、なんだこれ!? 熱ッ!」
「なんだ? どうした!? おい水、水持ってこいッ」
彼らはもうナンパどころではなくなったらしい。みっともなくドタドタと暴れ回り、火を消そうと躍起になっている男達の前で呆気に取られていると、通りの人海からヌッと姿を現した男性が、少々慌てた様子で奈保子の元へ駆け寄ってきた。耳から下げた重そうな飾りがガチャガチャと音を立てている。太い眉は険しく顰められていたが、仲間の無事を確認して安心したように緩められた。
「ア、アヴドゥルさん」
アヴドゥルは男たちを一瞥してから、さっと自然な動きで奈保子の手を取った。
「さあ、行こう、今のうちに」
ぎゅっと指を掴む力強さに、どきり、と胸の奥が騒がしくなった。浅黒い肌をした、ゴツゴツして骨張った手。大きくて分厚くて、男の人特有の手だ。
瞬く間に自分の頬に熱が集中するのがわかった。人混みを掻き分けて進むアヴドゥルに引っ張られ、奈保子はされるがまま彼に着いてゆく。人の多い通りを抜けて一本隣の路地に入ると、先ほどまでの混雑が嘘のように穏やかな空気が漂っている。
アヴドゥルはそこでようやく歩みを止め、ふうと一息ついてから惚けたままの奈保子を振り返った。
「混雑があまりにもひどいので、途中で別の道に入ったんだ。置いて行ってしまって悪かった。しかし、奈保子、君もこの辺りでは十分に気をつけなくてはならないぞ。君のような可愛らしい外国人の少女は、歩いているだけでも危険だ」
責めるような、或いは苛立っているような口調では決して無い。子供に言い聞かせるかのように、あくまでも優しく、アヴドゥルはそう諌めるのだ。奈保子は顔を熱くしたままでうな垂れ、ただうんうんと頷いた。
アヴドゥルは、奈保子のことを娘か妹かなにかのように思っているらしいところがある。それは、彼に淡く憧れている奈保子を、時折じれったく悔しい思いにさせる。今もそうだ。それでも、彼が心配して捜しに来てくれたのだ、ということが嬉しかった。緊張と歓びで、繋いだ手のひらに汗が滲んでしまう。それが彼にばれてしまわないか気になって、さらに心臓がドキドキする。
「む、どうした? 具合でも悪いか?」
赤くなって下を向いていると、彼は心配そうに覗き込んでくる。大丈夫、と答えた声は少し上擦ってしまったかもしれない。そんな不器用な取り繕いにもとりあえずは納得してくれたらしく、彼は何度か確かめるように頷いてから踵を返した。
「さあ、皆のところに戻ろう」
大きな手が離れていく前に、奈保子はすかさず指にぎゅうっと力を込めた。アヴドゥルは一瞬面食らったような顔をした後、声を立てて笑い、「そうだな、またはぐれては困るからな」と手を握り直す。
子供扱いでも何でもいいから、もう少しの間、この手を離したくない。確かめるように指先に意識を集中しながら吐き出した溜め息は、外気に負けじと熱かった。