ジョナサンが次にナミネの元を訪れたとき、もう彼女の姿はそこには無かった。屋敷が焼けてしまってから新しく用意した服も本も、全てそのまま置き去りにされて、うっすらと埃が被ってすらいる机の上に、ただ一枚紙切れが置いてあるのみだった。
ジョナサンのことを本当の兄のように思っていたということ。優しい父のことが大好きだったということ。ディオがしたことに妹として責任を感じているということ。大好きだった父が亡くなり、兄も死んで、ジョースター邸が焼け落ち、自分の居場所はもうどこにも無い、ということ。最後まで迷惑をかけて、申し訳なく思うということ。
美しい筆跡で書かれた手紙は、最後の方は手が震えていたのか、少し文字が歪んでいる。

「ああ……なんてことだ。僕がもう少し気を配ってあげていれば……」

義妹はどこへ行ってしまったのだろう。万が一、自分で命を絶ってしまうようなことがあったら。
手紙を握りしめながら、ジョナサンは心から後悔した。
義父や警官たちが目の前で死んで行く場面を目の当たりにし、人間でないものに身を落とした実兄の姿を見て、ただでさえショックだったはずだ。
唯一の肉親、最愛の家族を失ったナミネ。だからこそ余計に心の叱責に耐えられなかったのかもしれない。彼女は本当に優しくて穏やかな子だ。警察がディオの犯行にナミネも関わっているのでは、と疑ったとき、それに真っ先に反論したのは他のでもないジョナサンだった。
本当ならばすぐにでも探しに行ってやりたいのに、無情にも彼女の唯一の肉親の存在が、そうすることを阻む。
ジョナサンは、ひとまず人を手配して街を探させることを決めて、住人のいなくなった部屋を後にした。


◆◇◆


「……また寝るのか?」

すっかり元通りになった声帯から、いつもの低い声が出る。
ナミネはゆっくりと目を開けた。分厚いカーテンが引かれ、完全に外からの光が遮断された室内。暗闇の中に青白く浮かび上がる兄の輪郭を、ぼんやりと見上げる。

「……眠たいわ。すごく」

ふかふかのベッドの上に二人で横になり、片肘を突いて上体を起こしているディオに見下ろされながら、ナミネは小さく微笑んだ。
ずっと暗いままの部屋。時間感覚はとっくに狂い切り、ただ眠っては起きて、また眠っての繰り返し。しかし目覚めていても、兄の腕の中で、ジョナサンを想い、義父を想い、屋敷での幸せな日々を思い返すだけのナミネには、時間も曜日も何もかもが関係ない。
兄がここにいるということは、今は昼なのだろうか。夜になると彼はどこかに出かけていってしまって、日が昇る前にこの部屋に戻ってくる。そのたびに、赤い液体でいっぱいに満たされたボトルを持ってきて、中身をナミネに飲ませる。
「あれ」が何なのか、どうやって調達してくるのか、なぜ甘美な味に感じるのか、本当はわかっていた。それでもその事実から目を背けたくて、自分の頭の中で、ずっとわからないふりをし続けている。

「喉が渇いただろう」
「ううん。今はいいの。まだお腹に残ってる」

ゆっくりと自分の腹を撫でる。ディオの手が伸びてきて、自分の指に重ねられた。その指先も、もう元通りに肉や皮膚が再生している。
「あれ」を飲むと、どういうわけか不思議なのだが、本当に恐ろしいぐらいの速さで治癒してしまうのだ。その能力を目の当たりにして、その体質は今のナミネも同じなのだと言われても、「人でなくなった」実感はまるで湧いてこない。

「兄さん……」

小さな声で呼ぶと、彼は子供の頃からそうしているように、重ね合わせたナミネの手を握りしめた。睫毛に縁取られた赤い目がすうっと細められて、ナミネのそれをじっと見つめる。
ああ、愛おしい。

「何も……考えたくない」
「考えなくてもいい。それとも、考えられなくしてやろうか」
「怖いの」
「おれを怖がるな」
「兄さんが怖いんじゃあないの」
「自分が怖いか? 吸血鬼になった自分の身体が?」
「ううん……よくわからない」
「お前はただ傍にいればいい。おれたち兄妹は永遠に一緒だ……安心しろ」

永遠を生きる。愛しい兄と二人だけで、ずっと。
世界が終わってしまうまで。
永遠とは……なんて甘い響きの言葉なのだろう。
それなのにどうして、こんなに心が薄暗くて、漠然とした不安に駆り立てられるのか。いつだって、聡明な兄の言う通りにしていれば、どんなことだってうまくいった。まして、兄が言うことが間違っていたことなんて無い。
それだから、不安に思うことは一度も無かったのに、今回は、違うのだ。
ディオの首に手を回して引き寄せ、胸に顔を埋める。目を細めて笑う兄は、嬉しそうにナミネにキスをした。額、頬、唇。首筋にも荒々しく唇を押し当て、戯れに牙で噛み付いてくる。吸血鬼の血は、どんな味がするのだろうか。

「ナミネ……おれに全て任せておけ」

まるで安心させるように耳元に吹き込まれた言葉は、逆に、ナミネの心をより一層曇らせることを、この兄は知らないのだ。

そして結局、ナミネのその不安は的中した。


◆◇◆


一八八九年二月二日。
結婚式の後、ジョナサンの新居では、翌日のハネムーンへ向けての支度のために使用人たちが慌ただしく働いていた。ジョナサンは粗方のものをトランクケースに詰め終わり、執事と共に最後の確認を済ませる。エリナの方もほとんどの準備が終わっていて、少しだけ草臥れた様子で暖炉の前のソファに座り、明日からの旅行に思いを馳せているようだ。
ジョナサンには、一つだけ心残りがあった。三ヶ月程前に姿を消した義妹のことである。
あれから色々な所に聞き回ったり、自分の足で街を探してみたり、あるいはスピードワゴンの力を借りて裏から情報を仕入れようとした。しかし彼女の痕跡は皆無で、どこそこでそれらしい姿を見かけた、という些細な目撃情報すら手に入れられていない。
ディオがウィンドナイツ・ロットに居ると分かったとき、もしかしてナミネもそこにいるのでは、と思いもした。結局、彼を倒した後で古城の隅から隅までを捜索しても、義妹の姿はどこにもなかったのだが。
本当に、自分で命を絶ってしまっているのだとしたら。そう考えると身震いした。それでも遺体ぐらいは見つかっても良いはずだが、三ヶ月経ってそれすら見つからないというのは妙な感じがする。
ハネムーンから帰ってきたら、もう一度探しに行こう、今度はエリナにも少し手伝ってもらおう。女性の視点が加われば、今まで見落としていたことも分かるかもしれない。それまでは、彼女との新婚生活を楽しもう。そう考えていた矢先だった。

玄関の扉がノックされる控えめな音。
時計に目をやると、すでに午後九時を回ろうとしている。こんな時間にこの家を訪れる人物など見当もつかない。同じことを考えているらしい執事が首を捻りながら、開いた扉の隙間から覗いた女性の姿に、ジョナサンは愕然として腰を上げた。

「ナミネ!? ナミネじゃないか! 今までどこに居たんだい!?」

彼女は縁取りの幅の太いモーニングベールで顔を覆っている。まだ外は寒く、冷たい風が吹いているというのに、粗末なコートと薄いドレスしか身に纏っていない。エリナと共に玄関に駆け寄り、暖かい室内に招こうとするが、暗がりの中に突っ立っているだけで一向に部屋に入ろうとする様子が無かった。ジョナサンはそれを怪訝に思いながらも、早口で言葉を続ける。

「ずっと探していたんだよ。もし君が自分の命を絶ってしまうようなことがあったらどうしようと……」
「迷惑をかけて、ごめんなさい」

謝りながら、少しだけ微笑む、彼女のその表情が酷く寂しげで儚くて、今にも消えてしまいそうに見えて。
責めることも怒ることも、素直に再会を喜ぶことすらも忘れて、ジョナサンは思わず口を閉じた。

「新聞を見て……結婚したって。明日ハネムーンに出かけるっていうから、その前に挨拶しておこうと思って」
「挨拶って……いいから部屋にあがって、」
「本当に、おめでとう」
「…………」
「二人の結婚式に行きたかった……でも、わたしにはそんな資格はないから……」

ベールの奥で細めた目の、その眼光に何か見覚えがある気がしたが、ジョナサンが瞬きをしてもう一度見つめると、記憶の中の義妹と同じように優しげな瞳をしている。エリナが扉の外へ出て、ナミネの手を取ろうとしたが、彼女はそれをそっと制した。なんだかまるで、家の中から漏れる光の中にすら、足を踏み入れるのを躊躇っているように見える。
「資格がない」とは、どういうことだろう。やはり、実の兄であるディオが犯した犯罪のことをずっと気に病んでいるのだろうか。彼女は、ジョースター家が焼け落ちた時に、ディオも一緒に亡くなったとだけ聞かされているはずだ。ディオが行ったことの全てが、ナミネとは一切関係がないと分かっている今、ジョナサンには彼女を責める気持ちなど微塵もない。七年以上もの間、共に青春を過ごしてきたナミネは、ジョナサンにとっても本当の妹なのだ。

「ディオのことを気にしているのかい? 君が責任を感じる必要はないんだよ」
「もしよければ、旅行から帰ってきたら、一緒に暮らしましょう。ねえ、ジョジョ」
「うん、僕らの家で働いてくれていた人たちが、今度はこの家のことを手伝ってくれているんだよ。君が大好きだったハンナさんや、マリアさんも……」
「だから、暖かいところで話をしましょう」

ジョナサンとエリナの提案に、ナミネは何一つ首を縦に振らなかった。

「ありがとう」

少女の頃のような微笑みを浮かべて、彼女はそう言った。
それは、別れの挨拶のような。言葉だけ取ってみると優しく見えるのに、その裏にある寂しいものを露わにしまいとして、覆い隠している。ジョナサンもエリナも言葉を失って、ただただ義妹を見返すばかりだった。

「本当に、挨拶をしに来ただけだから。人を待たせているの。最近はずっとその人のところで仕事をしていて……だから、ごめんなさい」

ナミネが手で示した方へ顔を向けると、ぼんやりとオレンジ色の光を放つ街頭の下に、コートを着込んで帽子を目深に被った男が立っている。
ナミネは名残惜しそうに踵を返した。その頼りない、触ると壊れてしまいそうな背中を、どういうわけだか、追いかけることができなかった。

「幸せになってね」

黒いドレスの裾をはためかせながら、彼女の姿はゆっくりと闇に溶け込んでいった。


◆◇◆


「……もう、よろしいのですか?」

初めて自分の手で配下にした男が駆け寄ってきて、ナミネは小さく頷いた。
数メートル歩いてから振り返ると、二人はまだこちらを見つめて見送っている。
今、二人の所に走って戻って、全てを暴露してしまえたら、どんなにいいか……それができれば、どんなに楽になれるか。それすらもできない自分の無力さと心の弱さに、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
明日、ジョナサンとエリナが乗る予定の客船に、ディオも乗り込む。すでにその手配はワンチェンが済ませている。特注で作らせた、どんな衝撃にも耐えられるような造りの棺に兄の首を納めた時の気持ちは、他の誰にも分かるまい。ナミネは強く目を瞑った。
ジョナサンを殺して、その首から下の体を手に入れるというディオの計画に、ナミネは口を挟むことができなかった。せっかく身を固めて落ち着いて、これからやっと幸せになろうとしている義兄の邪魔をしたくなどない。他に良さそうな男を見繕ってくるから、と言って宥めようとしても、彼は妹を鋭く睨むだけで聞く耳を持たない。
五体満足のジョナサンに、首しかないディオが勝てるのだろうか。
深く長い息を吐くと、うっすらと白く曇った。



一週間も経たないうちに、アメリカへ向かう客船が爆発、沈没し、エリナ・ジョースターと身元不明の赤ん坊の二人だけがカナリア諸島沖で救助された、というニュースが街を駆け巡った。
その話を部下から聞きながら、どこか冷めた気持ちで、ナミネはワインを煽っていた。

兄は、今度こそ死んだのだろうか。
確信できなかった。
今までに二度、兄は死んだのだと思わせられたことがある。そのどちらも、絶望的な状況にも関わらず、彼はあらゆる手段を使って生き延びていて、自分からナミネの前に姿を現した。

ジョナサンは、おそらく死んだ。
でも、エリナは生きている。
ならば、きっと、今回も。
いつか──何日、何ヶ月、何年後かは分からないが──何でもないように現れて、妹にだけ向ける優しい目をして、低い声で名前を呼んで、キスをしてくれる。抱きしめる腕は、もう兄自身のものではなくても。
きっと、あの夜のように、迎えに来てくれる。
……きっと。

重たい腰を上げ、厚いカーテンをそっと開けて、窓から外を眺める。
ナミネは、星を見上げず、馬車の車輪が地面に跳ね飛ばした泥をじっと見つめていた。