「どうしたんだい? ナミネ」
「ジョナサン……」
屋敷の裏の小川の淵に腰を下ろし、ぼんやりした様子の義妹に、ジョナサンは努めて明るく声をかけた。
もうすぐ秋は終わろうとしている。もう川で遊べるような季節では無いし、そもそも、二人とも、もうそんなことをしてはしゃぐ年齢でもない。それでもナミネはこの場所が好きらしく、何か考え事をする時や、勉強や読書の気分転換をするのに、よくここに座り込んでいる。いつもならそのままそっとしておくのだけれど、今日は元から小さな背中がさらに縮んで、ひどく落ち込んでいるように見えて、声を掛けずにはいられなかったのだ。
ブランドー兄妹が父に引き取られてから、もう五年程になる。
ディオとは、表面上は仲良く付き合ってはいるものの、彼が屋敷にやってきた頃の横暴が心の隅で燻り続けていて、本当の友人だと心底思うことはできない。だが彼の妹は兄とは違って、嫌みも裏表もない純朴な性格をしている。二歳上のジョナサンに素直に甘えてくる姿には好感を持てた。そうして二人はすぐに本物の兄妹のようになれたのだった。
「ちょっと考え事をしていたの」
ナミネはため息をつきながら答えた。吐き出した息は白くなりながら空へ上っていって、すぐ見えなくなった。隣に座り込み、彼女の表情をちらりと伺う。
艶艶した黄金色の髪が、そよ風に揺られてきらきらと輝いている。細い眉は少しだけ顰められ、ぼんやりと前を見つめる賢そうな瞳は、揺れる水面を反射して煌めいていた。今の彼女を見て、本当は下町育ちだと分かる者は誰もいないだろう。
「もしかして、好きな人でもできた?」
「…………ううん、ちがうの」
冗談のつもりで、からかうように言うと、ナミネは一瞬体を硬直させたあとに少しだけ笑った。目が泳いでいる。
否定はしているが、どうやら図星らしい。彼女が通っているのは女学校なのだから、同年代の男の子と触れ合うような機会などなさそうなものだが。街で出会った男の子だろうか。
「話したくないならいいけれど……なにか、僕に手伝って欲しいこととか、聞いて欲しいことがあれば言うんだよ」
「ジョナサンは……優しいね」
「僕は紳士だからね。妹が困っていたら助けるのは当たり前さ」
「……うん。ありがとう」
微笑んでみせる、その表情が、なんだかぎこちなく、ひどく切なく見える。一体誰のことを好きになったのだろうか。
そのことが彼女の心に影を落としているのなら、不安を取り除いて、背中を押してやりたいと思うのは、兄としては当然だ。しかし心の中に無遠慮にズカズカと入っていくのは躊躇われる。
結局、ジョナサンが彼女に向かって言ったのは、これ以上冷えたら体に悪いから中に入ろう、という当たり障りない言葉だけだった。
◆◇◆
皆でディナーを楽しんでいる時のナミネは、普段と変わらないように見えた。父やディオに心配をかけまいとしているのかもしれない。食事のあと、リビングのソファに座ってぼうっとしている彼女に声をかけようか迷ったが、そっとしておいてやろうという結論に至ったのだった。
階段を上がりきったところで、リビングの方を何気なく見下ろす。ディオが本を抱えてやってきて、ソファの後ろからナミネに何かを耳打ちしているのが見えたが、その時は特に気に留めず、ジョナサンは自分の部屋に戻って勉強を始めた。
……どれくらいの時間、机に向かっていたのだろうか。時計をみると、すでに三時間ほど経っている。今日はもう切り上げて、休む準備をしようと、ジョナサンは立ち上がって大きな伸びをした。
廊下の照明はすでにほとんど落とされている。召使たちはもう休んでいるのだろう。
凝った肩を回しながら足を踏み出したところで、ジョナサンはふと妙なことに気付いた。本当に微かだが、ディオの部屋からナミネの声が聞こえるのだ。一筋の光が、彼の部屋の扉から漏れている。
別に、兄妹なのだから、お互いの部屋を行き来したって変ではない。ただ、どういうわけかジョナサンには、それが、ナミネを悩ませていたことと関係があるような気がしたのである。
自分の家なのに足音を殺すというのは、なんだか変な話だ。そもそも毛足の長い絨毯が音を殺してしまうのだが。そっとドアに忍び寄り、耳を傾ける。
何を言っているかまでは聞こえなかったが、ナミネは涙声のように思われた。ディオが泣かせたのだろうか。日頃から不信感を抱いている義理の兄弟に少しの怒りを感じながら、ジョナサンは一センチにも満たない扉の隙間から中の様子を伺った。
紳士として、人の部屋をこっそり覗くというのはどうなのかとは思うものの、場合によっては妹を助けに入る必要があるかもしれないと思ったのだ。
──その判断は間違いだった。
机の上のランプだけが灯され、薄ぼんやりとした室内。
兄妹は二人ともベッドの上にいる。ディオの、随分と逞しくなった身体が、闇の中で忙しなく動いていた。二人の輝く金髪が重なっている。もがき伸ばされた
ナミネの腕が、宙に浮いてやけに白く見えた。
(これは……いや、でも……でも、こんなことは──)
あり得ない。
ジョナサンの思考を、目の前の光景がことごとく打ち砕いていく。頬を真っ赤にして、泣きながら喘ぎ苦しむナミネと、それを見下ろして口元を歪めているディオ。彼がゆっくりと腰を打ち付けるたびに、何やら粘着質な音までが部屋に響いている。ナミネの顎を掴んで上を向かせて、ディオは強引にキスをした。彼女は嫌がるどころか、ぶるぶると震えてはいるものの、兄の首に腕を伸ばして、それを甘受している。
「に、さあん。にいさん……にいさんっ」
切なく兄を呼ぶ声。逞しい腰に回されたナミネの細い脚が、ぎゅっと交差して絡みついている。
彼女は、この行為を受け入れているのだ──こんな、背徳的な行為を。いつから始まったのか知らないが、これだけ美しい兄妹だから間違いを犯してしまったのだろうか、いや、でも。
「ナミネ……」
「ディオにい……さん。すき、すき……」
「ああ……わかってる」
「すきなの……っ」
ナミネは、熱に浮かされたような潤んだ瞳でディオを見上げる。彼は妹の額に唇を押し当て、それから瞼、頬、そして唇へ移動する。舌を絡ませるような深い深いキスを、彼女へ振る舞っている。
「おれも同じだ……ナミネ」
「や、こわいよ……っ、こわい……」
「大丈夫だ、おれに任せろ……」
ディオが小さな妹を抱きしめるとほぼ同時に、ナミネは一際大きな嬌声と共に背筋を仰け反らせた。
ジョナサンは、いつの間にか目が離せなくなっていたことに気付いて、我に返り、バッと扉から顔を離した。
なんてものを見てしまったんだろう。見てはいけないものを見てしまった。
義妹の切なそうな顔と声が頭にこびりついている。
これは忘れよう、見なかったことにしなければ。ジョナサンは頭を振ると、ふらふらとした足取りで階下へ向かった。
◆◇◆
翌朝、何もなかったように朝の挨拶をするナミネに、ジョナサンも、何も見ていないような笑顔で接するのはなかなか骨が折れた。それでも彼女は気づかなかったようだが。しかし、ディオは、どうだっただろうか。他人の態度に鋭く敏感な彼のことだから、もしかしたら感づいてしまうかもしれない。ジョナサンはヒヤヒヤしながらも、ディオが特に何も言ってこないことに安堵した。
楽しげに談話をしながら朝食をとった後は、パブリックスクールへ向かう支度をする。タイをきっちり締めたことを確認して、玄関ホールへ向かうと、先に準備を終わらせたディオが待っていた。
「お待たせ、ディオ」
「今日は随分支度が遅いじゃあないか」
召使から受け取ったコートを着ながら、ジョナサンは内心ほっとする。ディオの態度はいつもと変わらなかった。見送ってくれる父と召使たちに挨拶をして、玄関を出た。
「ナミネは先に行ったのかい」
「テストが近いから、早めに行って勉強するんだそうだ」
「そうか、忙しいんだね」
会話が途切れる。いつもなら黙って二人で歩いていても何も思わないが、今日は違う。変に焦ってしまうのだ。しかしとりわけ面白みのある話題も思いつかず、ジョナサンは開きかけた口を閉じた。
ふと、ナミネがディオのベッドの上で口走っていた言葉が頭を過った。「こわい」とは、何が怖いのだろうか。上り詰めていく感覚だけが「こわい」のではあるまい。
兄妹という、切っても切れないものでありながら──世のタブーだと知りながら恋をしてしまった、脆い糸で繋がった二人の関係が怖いのではないか。
ジョナサンは、ここへきて急に心が揺らぐのを感じた。
二人の間に、兄妹に感じるもの以上の愛情があるのだとしても、そんな脆い関係は互いのためにならないから、手遅れになる前にやめた方がいい。もし今ディオにそう言えたら。ナミネをこれ以上苦しめないでやってくれと言えたら──それができれば、どんなにいいか。
「なあ、ジョジョ」
不意に声をかけられ、心臓がどきりと跳ねる。
なんだい、と努めて何でも無いような返事をすると、ディオは目だけで振り返った。
琥珀色の鋭い目。射抜くような視線に、心の中が見透かされているかのようだ。
「ナミネは君に何か言ったのかい」
「えっ」
「何か、言ったかい?」
彼はゆっくりと、同じ言葉を繰り返す。
──ディオは、わかっているのだ。
わかっている上で、あえて直接口に出さずに、ジョナサンに釘を刺そうとしている。ナミネは、ジョナサンに何も語ろうとしなかった。それならば、首を突っ込む資格はないと、彼はそう言いたいのだ。
「僕は……何も聞いていないよ。ただナミネは少し元気がなさそうに見えたけれど」
ディオは、そうか、と言って視線を前へ戻した。ジョナサンの答えに満足したらしかった。
この兄妹は、一体これからどうするつもりなのだろう、とジョナサンは心をざわつかせる。
そんな不安定な関係で、どこへ向かうつもりなのだろう。そこに幸せなどあるのだろうか。少なくとも今のままでは、幸福なんてものがあるはずは無い。
今にも崩れてしまいそうな愛しかないのだから。
それなのに、ディオが満足げに笑うのは、どうしてだろうか。
これ以上は、考えたくない。
ジョナサンは空を仰いだ。
もうすぐ、雪の降る季節がくる。
ふうっと吐き出した息は、薄っすらと白く曇って空にのぼり、すぐに掻き消えて見えなくなった。