いつもは暗闇に閉ざされているDIOの寝室は、今日は燭台に火が灯され、オレンジの光が柔らかく辺りを照らし出している。
黒いクロスを敷いた机の前に座ったナミネは、机上の繊細な装飾が施された鏡と、同じように華奢な模様が刻まれた小箱を黙って見つめていた。脇に控えていたテレンスが、箱の中から次々と宝石類を引き出し、布の上に並べていく。大粒のダイヤモンド、何連もの真珠のネックレス、エメラルド、ルビー、サファイア。純金の美しいバングル、プラチナのピアス。
まあ、と声を出して顔を近づけ、まじまじと見つめる。どれもこれも最高級のグレードの石や金が惜しみなく使われた一級品だ。こんなものを、一体どこからどうやって仕入れてくるのか。この館の、この恐ろしいほどに潤沢な資金の出所は、エジプトへやってきてからまだ日が浅いナミネにはよく分からない。
「お前はサファイアが好きだっただろう」
ぬっと後ろから現れた腕が、無造作に蒼玉のネックレスを掴み、ナミネの喉元に当てる。
鏡を覗いてみると、濃紺の夜空のような輝きが、蝋燭の炎の光と混じって、なんとも言いようが無く美しい色合いを紡ぎ出していた。見とれてしまう程に綺麗だ。
ふと、鏡の中、自分の肩越しに兄と目が合った。珍しいことに、彼は楽しそうに笑っている。驚きと感心、そして微かな呆れを孕んだ長めの息を、ふうと吐き出す。
「大人になったら買ってやる、という話だったな」
「そんな子供の頃のことを、よく覚えているものねえ」
「気に入らないのか」
「ううん、すてき」
自分の首をじっと見つめながら、ナミネは半ば上の空で返事をした。
あれはまだロンドンに居た頃だった。
珍しく兄に連れられて出かけたことがあった。何の用事だったのかは忘れたが、普段は家から出ないように言いつけられていたので、久々の外出に少々浮き足立っていたのを覚えている。
少し大きめの通りに出たとき、道の向かいの店のショーウインドウの中が目に入って、ナミネはふと足を止めた。妹が動かなくなったので、ディオも立ち止まって振り返る。
「……どうした?」
「きれいだね」
そう言って、ガラスの向こうにある色とりどりのアクセサリーを指差した。自分にはきっと縁がないものだろうと幼心に思いつつも、女の子というのは誰でもキラキラした綺麗なものに憧れるものだ。ディオは怪訝な顔をして、お前もああいうのが欲しいのか、と問うた。別に、手に入れたいわけじゃないのだ。ただ純粋に、綺麗だなと思っただけで。
「青いのが一番きれい」
「サファイアか。お前が大人になったら買ってやるよ」
さっさと踵を返したディオの背中に向かって、ナミネは曖昧に笑った。
宝石なんかいらないから、大人になっても兄さんがずっと傍にいてくれたらいいのに、と思ったのを憶えている。たとえずっと、明日の食事を手に入れるために苦労し続ける日々だとしても。
そういえば、ジョースター卿が初めて買い与えてくれた宝石もサファイアだった気がする。DIOが今持っているような大振りなものではなく、控え目だが上品なデザインのネックレスだった。それはナミネが強請って買ってもらったのではなく、女学校を卒業した年に、お祝いとして貰ったのだった。貿易の仕事に携わっていた義父が、外国で選んで手に入れたというそれを、ナミネはとても大切にしていた。その後、義父が亡くなり、家も燃えてしまった時に、他の全ての持ち物と一緒に無くなってしまったのだが。
そんなことだから、DIOは妹がサファイアが好きなのだと思い込んでいるのだ。勿論、嫌いなわけじゃないが、瞳の色が変わってしまった今では、赤と青の組み合わせが、緋色の炎を反射して光る金髪の間で、やけに浮いて見える。この宝石は確かに思い出深いものだけれど、今の自分には似合わない。既に人であることを放棄した自分には。
兄の手からそれを丁寧に受け取り、そっと机の上に返す。行き場を失ったサファイアは、すぐに執事の手によって箱の中へ戻されてしまった。
「兄さんの好きな色がいい」
ほう、と意外そうな声。後ろから絡んだ兄の手が、ゆっくりと頬を撫で下ろす。次に、首筋、鎖骨。そうしながら、何か色々と思案しているらしかった。
次に兄が手に取ったのはルビーの首飾りだった。DIOがそれを自分の首に巻き付けるのを眺めながら、似たような形状のものを昔エリナが着けていたな、とふと思い出した。その細くて白い喉元で輝いていたのは、確か青い石。
すぐに彼に声を掛けられて、思考が現実に引き戻される。目の前の鏡には、赤い宝石で首元を飾られた自分が映っていた。細かい装飾のなされた金の台座の中にすっぽりと収まったピジョン・ブラッドが、睨め付けるように鋭い輝きを放っている。そこでもう一つの眼が開いているようだと思った。
「お前の眼と髪によく合う」
「うん」
「気に入ったか」
「ええ、とっても」
ナミネの気のない返事にも、兄は満足したようだった。テレンスに合図をすると、彼はすぐに残りの貴金属類を箱へ仕舞っていく。すぐにその作業は終わり、DIOとナミネの方に向かって一礼してから、テレンスは寝室を出て行った。あの宝石たちは、どうなるのだろうか。現金に換えられるのか、はたまた倉庫に仕舞い込まれて、そのままになるのだろうか。どちらにせよ、もう二度と、あの美しいコーンフラワーブルーを目にすることはないだろう。それが何となく寂しく感じた。
「ルビーもサファイアも……元は同じ鉱石なんですってね」
急に思い出したかのように口にすると、DIOは小さく鼻を鳴らした。当然、兄も心得ている知識だろうと、分かっている。それでもナミネは構わず話を続けた。
「ほんの少し不純物が混じっただけで、あんなに違う色になるなんて、不思議」
あのネックレスをくれたときの、義父の優しい笑顔がぼんやりと心に浮かんだ。そんな細かいことをよく覚えていたものだと自分に感心する。あの、義父の青い瞳。ジョナサンの目も同じ色だった。エリナの目は、ジョースター家のそれとは少し違う色味だが、透き通るような空色だった気がする。
サファイアの石言葉は、確か、「誠実」「高潔」「慈愛」。どれも今の自分に相応しくない響きだった。
宝石も、兄も、幼い頃欲していたものはどちらも手に入った。それなのに心は満たされるどころか、針で穴を開けられてどんどん零れだしているかのようだ。
どこで道を誤ったか──一体どこから間違っていたというのか。
ナミネには、それはもうよく分からない。
「ナミネ、お前今、余計なことを考えているな」
再び回顧に耽ろうとしているナミネの思考を引っ張り上げたのは兄だった。
半ば呆れたような口調で妹を諫めたあと、DIOはさっさと踵を返してベッドの上へ戻った。次第に闇の中に埋もれていく筋肉質な背中を黙って見送る。シーツの上にどっかりと横たわってから、彼は小さく手招きをして妹を呼びつけた。
仕方がないので重たい腰を上げ、彼の傍に寄る。瞬きをする、その一瞬のうちに、ナミネの体は彼の体の下に置かれていた。
「要らんことは忘れろ」
忘れさせてやる、という意味らしかった。
さっき兄の手によって取り付けられたルビーは簡単に外されて、ベッドの端のほうへぽいと放り投げられる。緋色の輝きを目で追いながら、ナミネはDIOの言う通り、余計なことはもう忘れてしまうことにした。