「チェスはお好きかしら」

窓際の小さなテーブルに置かれた、古金美色のアンティークランプに灯された淡い炎が揺らめいている。承太郎が開け放った扉から差し込む光は長く伸び、入り口から数メートル先の絨毯を照らし出す。その部屋の主である女はさらにその向こう、窓の傍に向かい合うように設置されたソファに腰を下ろしていた。
背筋が粟立つように美しい女だった。年は承太郎と同じか少し上に見える。金糸の髪が炎の赤を反射し、煌めいている。
チェスは好きかしら。彼女はゆっくりと、先程の言葉を繰り返した。
女の正面、ランプが置かれた小さな机の上には、白と黒のチェック模様の美しいボードが設置されている。豪華なようでいて質素な部屋の内装とよく合う、骨董品らしいそのチェス盤に駒を並べながら、彼女は承太郎に着席するよう促した。

「仕舞いなさい」

背後に出現させた、半透明の相棒の姿を見咎め、女は呆れたようにそう言った。

「あなたとやり合う気は無いのよ」
「それを、どう証明する。おれはてめーの兄貴の仇だぜ」

薄い吐息と共に、そうね、と呟くように漏らした言葉は、どこか他人事のような、感情の篭っていない無機質な印象を受けた。
暫くの間、二人は押し黙ったまま視線を交わしていた。闇の中に浮かび上がるピジョン・ブラッドが、ぼうっと承太郎を眺めている。その眼からは、彼女の言う通り、戦意は感じられなかった。ただ、冷たく濁った虚無感と、行き場のない哀しみが、赤い目の底に沈んでいた。
承太郎はゆっくりとスタープラチナを自身の中へ還した。警戒を解いたつもりではない。あの邪悪の化身、闇の帝王の肉親だというこの女に、承太郎は少なからず興味を持っていた。外見や雰囲気こそ似てはいるものの、あれを兄であるとするには、彼女はあまりにも靜か過ぎた。

「わたしは兄よりも弱い。兄はあなたに負けた。だから、わたしはあなたには勝てない」

美しい、丁寧なクイーンズが、艶のある唇から吐き出される。
承太郎は一歩、二歩と彼女に歩み寄った。いつでもスタンドを発動できる。拳で躊躇なく殴りつけることもできる。この女がどんなスタンド能力を持っているのか分からないが、いつでも、攻撃の体制へ移行できる。そう考え、ジリジリと女との距離を詰めて行った。

「ルールは知っている?」

一片の動揺すら伺わせず、それどころか僅かに微笑みのようなものを見せながら、彼女は問うた。承太郎は黙ったまま答えなかった。
ルールこそ一応分かってはいるものの、プレイ自体は殆ど経験が無い。部屋にチェス盤を構えている程であるから、彼女は相当このゲームに興じてきた筈だ。この女の意図がまだ読めていなかった。この状況で、このソファに承太郎を座らせて共にボードゲームに勤しもうとする、彼女の考えが、まだ解らない。

「てめえ、一体何を企んでやがる」
「ナミネ、よ」

淡々とした声で訂正されても、承太郎はその名を口にしようとは思わなかった。その名前は知っていた。百年前、DIOと共に石仮面を被り、吸血鬼へ身を堕とした、悪の帝王の妹。祖父の念写とSPW財団職員の諜報、捕らえられたDIOの部下から得た情報により、その存在についてはとっくに聞き及んでいた。そして、DIOの寵愛を一身に受けていたらしい、という事も。

「わたしが勝ったら、」

すらりとした指先が盤の上の駒に触れ、位置を細やかに調整している。

「何でも一つ言うことを聞いてもらうわ」
「随分と、子供染みた話だ」

正直な感想を、懐疑心剥き出しの態度で突き放したように言うと、ナミネは喉を鳴らして微かに笑った。

「おれが勝つとどうなるんだ」
「同じよ。何でも一つ言うことを聞いてあげる。聞きたいことにも答えてあげるわ」

まだ解らない。じっと女の顔を見下ろす。極めて穏やかで粛たるその瞳からは、やはり闘志は見受けられない。禍々しくもあるが、それでいて清らなようでもあるその眼に見詰め返され、承太郎は視線を外した。渋々、ソファに腰を下ろすと、ナミネは満足したように目を細める。

「あなたから、どうぞ」

承太郎側に並べられた王族と兵達は、白く染められている。一頻り黙って考えてから、最前列に置かれたシンプルな駒を手に取り、前進させた。
コツ、コツ、コツ。
しんと静まり返った室内に、硬い素材同士がぶつかり合う音が不規則に響く。礼拝後の聖堂内のような、厳粛ではあるが冷たくはなく、居心地の悪い訳ではない、奇妙な静寂感だった。
勝てないだろう、と承太郎は分かっていた。ダービー兄弟とは違う。イカサマがどうのこうので何とかなる相手ではなかった。彼女が何を考えているか分からないが、勝ったにしろ負けたにしろ、向こうが攻撃を仕掛けてくるならばこちらも黙ってはいない。しかし何度気を尖らせても、この目の前の少女の姿をした女からは殺気は感じ取れず、抗おうと言う気すら見せなかった。
抵抗しないならば、承太郎は彼女を財団へ引き渡すつもりだった。吸血鬼という稀有な存在である彼女が居れば、件のアステカの仮面の研究も進むに違いない。また、全世界に潜んでいるであろうDIOの手下について、知っていることを話してもらわねばならなかった。彼女がそれに協力的な態度でなくとも、こちらにはジョセフのハーミットパープルの念写がある。

「承太郎」

不意に、まるで旧知の仲であるかのように、自然に名前を呼ばれ、目を上げるとナミネは駒を持ったままこちらを見上げていた。

「お母様は、もう宜しいの?」

母、という単語に承太郎は目を剥く。ゆっくりと息を吐き出した後、肩を下げながら、「ああ」と低く唸るように返事をすると、ナミネはそれだけで満足したらしい。何事も無かったように平然として駒を動かし始めた彼女を、承太郎は黙って見詰めていた。

「わたしの母は、子供の頃に流行病で死んだの。でも、父はひどい男でね」

コトリ、ビショップが進む。

「兄さんだけが心の拠所だったのよ。百年間、ずっと一人で、兄さんが迎えに来るのを待ち続けて」

ぽつぽつと語る彼女に、承太郎は複雑な思いになる。彼女の平穏を奪ったことに対する後悔も無ければ、同情するつもりもない。しかし、この吸血鬼の境遇に、ほんの僅かにでも憐憫の情が唆られないということもない。彼女へは何の恨みも怒りも無かった。それ故に、駒をひとつひとつ進めて行く度、ドロドロとした重たい暗いものが承太郎の胸の奥に堆積してゆく。
それから暫く会話は途切れ、駒とボードのぶつかる音だけが虚しく響き続けた。

「チェックメイト」

トン、と黒いクイーンが静かに置かれる。
承太郎は苦々しく顔を歪めた。女王のはす向こう、承太郎の手の傍に鎮座している白いキングは、逃げ場を失って追い詰められている。
ふふ、と微かな笑い声に、目を上げるとナミネは口角を上げていた。

「お願いを聞いてもらえる?」

承太郎は黙って立ち上がり、スタンドを召喚する。ナミネはもうそれを咎めようとはしなかった。ソファに深く座り直し、浅く長く溜め息を漏らす。金の睫毛に縁取られた瞼が震え、その奥に嵌ったルビーがくるりと動いて承太郎に向けられた。

「カーテンを開けて頂戴」

白い喉が微かに上下し、穏やかな言葉が息を吐くように唇から飛び出した。
承太郎は、彼女の真横の壁に設置されている遮光カーテンを見た。厚手の布地の淵、壁との隙間から微かに外の光が漏れ出し、縁取りを作っている。あと数時間で太陽が真南の天上へ昇ろうかという時刻だった。

「自殺を手伝えということか?」

嘲笑うように尋ねると、ナミネはほんの少し目を細めた。

「あんたを死なすわけにはいかねえ……このままおれと一緒に来てもらう。聞きてえことが沢山あるんでな」

まあ、とやけに間延びした声で彼女は言い、頬に手をやる。

「わたしが勝ったら、一つだけ言うことを聞いてくれると言ったじゃあないの」
「承諾した覚えはない。あんたはさっき『お願い』と言ったな。それを聞き入れてやることは出来ん。スピードワゴン財団にあんたを引き渡す」

ナミネはもう一度溜め息を吐く。スピードワゴン、とゆっくりとなぞる。遥か遠くの記憶を懐かしむ昔人のような表情に、大して年の違わないように見えるこの少女が、今日に至るまでに経た歴史の長さを改めて思い知らされる。

「そう……分かったわ」

唐突に、彼女の顔から一切の感情が消失した。
咄嗟にスタンドを動かすよりも早く、承太郎は後方の壁へ吹き飛ばされていた。

「なッ──!」

背中を強かに打ち付け、一瞬息が詰まる。縫い付けられるように身体が動かなくなる。ビッタリと壁に貼り付いたまま、一切の身動きを封じられ、承太郎は唸りながらナミネを睨み付けた。スタープラチナの射程距離外まで弾き飛ばされていた。

「ごめんなさい」

ゆらり、と立ち上がったその背後に、銀色の人影が蠢いたのが微かに見えたが、すぐに闇に溶け込んで姿を消した。金の髪が肩から零れ落ち、頬を覆い、女の表情は伺えない。

「あなたはわたしを殺しに来たのだと思い違えていたわ」
「おれは……!」
「疲れるのよ、永く生きるというのは」

言葉を遮られ、承太郎はハッとした。感情の起伏の乏しい、薄暗い紅い瞳には、やはり底知れぬ悲哀と、驚いたことに、ほんの僅かな慈愛が込められていた。
──慈しんでいる。
彼女がむかし共に暮らしたという彼女の義兄を、承太郎の高祖父であるジョナサン・ジョースターを、ナミネは明らかに承太郎の背後に見出していた。

「勘違いしないで」

女の白い手が、カーテンの布に添えられる。やめろ、と呟いた声は薄っすらと震えた。動かそうと力を込めた拳は、やはりほんの数センチですら壁から浮かせることはできなかった。

「わたしは……ほんの数年でも、もう一度兄さんと一緒に暮らせて幸せだった」
「待て!」

顔を上げ、遮蔽物の向こうにある太陽を見透かすかのように、ナミネは目を眇めた。

「さようなら」

恍惚、夢想、それでいて聖母のような、神聖ささえ感じられる微笑。
弾けるように壁から剥がれた手は、聊かの光の塵を掴んだだけだった。

カーテンの開け放たれた窓ガラス越しに、一斉に差し込む光の中。その瞬間、憐れな吸血鬼は、恐らくは百年越しに見るのであろう太陽の向こうに、一体何を見出したのか。
最後まで、女の中には確実に哀しみが存在していた筈だった。肉親を失った悲しみが、唯一の拠所を失った悲しみが。
それでも、彼女はその一瞬まで幸福でありたかったのだろう。闇に身を窶し、薄暗い場所で、毒を孕んだ泥に塗れながらもDIOに愛されていたというその記憶と事実を、誰にも暴かれぬよう、一人で胸に抱えたまま往く。それが女の、承太郎に対する微かな報復だったのだろう。百年の孤独を耐えた先に得た、束の間の幸福をその手に掴んだまま。

最期に少女が浮かべたその表情を、承太郎はその後何年経っても忘れることが出来なかった。