東京の初夏のような気怠い暑さは息を潜めた。窓の隙間から入り込む微かな夜風が、日に焼けて熱を帯びた肌を心地よく撫でていく。承太郎は一人、窓際で煙草をくゆらせていた。
ルクソール市街にあるホテルの一室だった。同室に割り当てられたポルナレフは、黙ってベッドに埋れビクリとも動かない。その枕横で眠るイギーも同じだ。隣の部屋で休んでいるジョセフとアヴドゥルも同様に、寝言も出ない程深く眠っているのだろう。数十日の旅は目的の地に近付いている。皆疲弊しきっていた。承太郎も例外ではない。腕や脚が重たく、敵との戦闘で負傷した傷も痛む。
夜半をとうに過ぎた頃だというのに、承太郎はなかなか眠りに就けずにいた。
「もってあと数日」。日本に残してきた母の容体を告げた財団職員の言葉が耳に残っている。あと数日。それ以内に、どんな手段を使ってでも、カイロに潜むDIOを見付け出し、打ち倒さねばならなかった。
灰を外に落とし、ぼんやりと街並みに目を向ける。
一帯は静寂に包まれていた。殆どの家屋の照明が消され、道に等間隔に並ぶ街灯と月だけが辺りを照らし出している。柔らかな風が吹き上がる度、微かに焼けた砂の匂いが鼻腔を突いた。
ふと、カタン、と微かな音がした。
「日本でも、煙草は十六歳から許されるの?」
静けさを破ったのは、そんな気怠げな女の声だった。
承太郎は反射的に飛び退き、スタンドを出現させた。咥えていた煙草の灰が微量に舞い、小さな火花が飛ぶ。足を半歩後ろへずらし、腰を少し落として身構える。
斜め向かいの壁に設置された、大きく開け放たれた窓の縁。完全に気配を消して、まるで最初から存在していたかのような自然さで、少女が腰を下ろしていた。
茶色い街の上にポッカリと浮かんだ月の光が、彼女の背から差し込んでいる。絹糸のような髪が透け、えも言われぬ輝きを放つ。日焼けを知らぬ肌は白く、色素の薄い容姿の中で、貫くような瞳だけがはっきりと色濃く映えた。地味な色だが、たっぷりとした襞とドレープのあるドレスは、まるで中世欧州の貴族を思わせる。
承太郎は我に返ると、乾いていた唇を軽く舐め、記憶の中から女の名を引っ張り出した。
「……ナミネ・ブランドー」
吐くように言うと、彼女はトン、と静かに床に爪先を付けた。ドレスの裾がふんわりと広がる。花が咲いたようだ、と思った。絵に描いたような情景だった。レースの裾から僅かに覗く素足は、やはりゾッとするほどに白く、甲には青白い血管が透けて見える。
「わたしのことを知ってるのね」
女は眠っているポルナレフやイギーを横目で確認し、おそらくは彼らを起こしてしまわぬように、ごくごく小さな声でそう言った。
息を呑む程に美しい少女だった。外見の年齢は承太郎と然程変わらないというのに、妖しい色気と優雅さ、そして余裕があった。
祖父の念写に時折現れる女だ──と、すぐに気が付いた。ナミネ・ブランドー。宿敵DIOの実の妹であり、百年の時を生きる吸血鬼であると、スピードワゴン財団からも予め話は聞いていた。
「寝込みを襲おう、という汚ねえ魂胆があるわけじゃあなさそうだ」
そう言いつつも、警戒を解いた訳ではない。握り締めていた拳をほんの少し緩めながらも、いつでも攻撃できるよう、スタープラチナを側に寄り添わせ、相手から一定の距離を保っていた。
「あなた達に何かしようなんて少しも思ってない。それにわたしは弱いのよ。あなたよりずっと」
短くなった煙草から、灰がボロリとこぼれた。
「何が目的だ」
低く唸った承太郎に、ナミネは苦笑する。
「昔わたしには義兄がいたの。彼を家族としてとても愛していた。だから、その子孫たちを見守りたいだけなのよ」
義兄とは、承太郎の祖父の祖父、つまり高祖父に当たるジョナサン・ジョースターの事らしい。ざあっと風が吹き付け、彼女のブロンドを撫ぜ回した。金糸がはらはらと揺れ、月の光を反射して眩しいほど煌めいた。
風に乗って、ふんわりと甘ったるい匂いが漂ってくる。女特有の、シャンプーや化粧品や香水の匂い。
「影、に気を付けなさい」
髪が頬にかかり、表情は伺えなかった。そう言い残して、ふわり、と彼女は身を翻した。
「どういう意味だ」と聞き返しながら、手摺の向こうに消えたその後ろ姿を追い掛ける。外にはただ薄青い闇が広がるばかりで、金の煌めきはどこにも見つけられなかった。
◆◇◆
夢か、と思った。翌朝目が覚めると靄がかかったように頭の中がハッキリせず、交わした会話の内容も朧気にぼやけていた。月光を背に受ける彼女の、一枚の絵画のような光景だけが、瞼の裏に微かに浮かんでくる。しかし、女の甘い匂いは、注意深く嗅ぎ取れば、確かに部屋の中に遺っていた。
「影」に触れることで相手を幼児退行させるスタンド使いを倒したその夜も、彼女は窓辺に姿を現した。
「彼は面白い能力を持っていたでしょう」
窓枠から降り立ったナミネは、ニコリともせず淡々とした口調で言った。
「あんたが寄越すのはあくまで助言だけか」
「あなたたちが負けるわけないと思ってたから。だって彼は、お金が一番大切な男だもの。怖いのは、心の底から兄さんに心酔しているような部下よ」
一瞬、部屋の中には冷たい沈黙が漂った。承太郎は握り締めていた手を解き、ポケットに無造作に突っ込む。部屋の扉の外に意識を向ける。信頼できる旅の仲間達が、そこで息を潜めて待機しているのを確かめてから、薄い溜め息を漏らした。予想外の出来事に気を揺るがしてしまった昨晩とは違う。DIOの妹が接触を図ってきたということは皆に伝えてある。全員で待ち構えていては警戒されるだろうと、承太郎は一人になる役を進んで買って出た。合図一つで、いつでも全員で攻撃することができる。おそらく、相手もそれに気付いている。
しかし、承太郎はもうスタンドを呼び出そうとは思わなかった。女にはやはり敵意が無い。瞳にはむしろ仲間を気遣うような慈しみがあり、それはどういうわけか母のホリィをも連想させる。
「あんたの目的は一体何なんだ」
その昨晩と同じ質問に、ナミネは微かに睫毛を震わせた。
「あなたなら、兄を殺せると思うから」
承太郎は学帽の下からじっと視線を送った。妙に会話が噛み合わない。問いに対する明確な答えを口にせず、のらくらとかわすばかりで本心を吐露しない。
「DIOの居場所を教えろ」
「それは出来ないわ。そのせいで兄さんに、わたしがここにいると知られたら、大目玉だもの」
「あんたは、おれたちがDIOを倒すことを望んでいるんじゃあないのか」
数秒の沈黙の後、そうね、と消えそうな声でナミネは応えた。ぼうっと虚ろに承太郎を見つめる目には生気はない。
承太郎は一歩、前へ踏み出した。
「なら、おれたちと一緒に来い」
女は返事もせず、微動だにしない。
近くに寄ると、彼女は思いの外小さかった。肩は華奢で腕も細い。力を込めれば砕けそうに、儚い。
ふ、とナミネは僅かに唇の端を緩くして、頬に落ちた髪を指で払った。
「カイロで待ってるわ」
ナミネは窓枠に腰掛け、身を乗り出す。ちらりと承太郎に向けた赤い目に、生温い慈愛の奥に塗り固められた奇妙な虚無感があることに気が付いた。瞬間、ゾッとしたものが背筋を駆け上がり、総毛立つような感覚が承太郎の全身を襲った。
──死を待つ者の目だ。
ベッドに虚しく横たわり、成す術もなく命を燃やして往く病人達と同じだ。旅の最中に何度も出会った、道端でただじっと蹲るだけの、未来への望みを無くした子供たちの目。やるせなく荒涼とした空虚さが、遣りきれない悲しさが、生への疲れが、彼女の中にぽっかりと穴を穿っている。
途端に、承太郎の意識は弾けたように現実へ引き戻された。
「本当に殺して欲しいのはてめーの兄貴じゃあねえな」
女は薄く笑うと、何も言わずにドレスを翻した。美しい髪がふわりと広がり、宙に舞う。それを目で追いながら、承太郎は気付いてしまった。たった二度の逢瀬で、息を呑むような奇妙な魅力の裏に隠された、彼女の毒に身を侵されていたことに。
死にたがり。ボソリと呟いた言葉はちゃんと届いたらしい。承太郎の呻きに応えるように、クスクスと微かな笑い声が闇の中から聴こえてきた。
後には彼女の残り香だけが微かな痕跡として、薄暗い宵闇の中に漂っていた。