大広間から執務室まで届く騒々しさが、いつの間にか消え失せていることに気がついて、書類と睨めっこをしていた周はふと顔を上げた。
次郎太刀が持ち込んだ酒を皆で飲み交わしていたようで、先程まで楽しそうに騒ぎ立てていたのだが。もう皆、呑み潰れてしまったのだろうか。仕事が残っているからと誘いを断ってしまったが、この書類が片付いたら顔を出そうかと考えていたので、少し寂しく思ってしまった。
書き物を終え、分厚い紙の束を束ねていると、不意に渡り廊下に気配を感じた。「失礼」という断わりの言葉と共に、開けっ放しの障子から顔をのぞかせたのは、やはり近侍刀の歌仙兼定であった。
「仕事は片付いたのかい」
「酔っ払ってるの?」
「素面さ」
そう答えつつ、足取りは微妙に覚束ないので、周はつい顔を顰めてしまう。畳の縁を跨いで部屋に入ってきた歌仙は、やたらにこにこしながら周のそばに腰を下ろした。歌仙は普段、あまり酒を飲まないが、珍しく酔ったときは、決まってこんな風に機嫌がよくなる。鼻の頭まで赤くしておいて、よくもまあ素面などと答えられたものだ。
「お水を持ってきましょうか」
「平気だよ」
「……歌仙?」
座ったままの周に半ば枝垂れかかるように、歌仙がのろりと抱きついてくる。当然支えきれず、後ろへころんと倒れてしまった。無遠慮に胸の膨らみに顔を埋めているようすを見下ろして苦笑し、彼の大きな背中をさするように手を動かす。
「苦しいわ」
「しばらく、このままで」
「重いんです」
「つれないなあ」
歌仙は上目にこちらを見て、わずかに唇を尖らせる。それがべらぼうに可愛らしく思えて、つい笑い出してしまうと、彼はさらに不満げに「なんだい」と問うてきた。どうやら体を離してくれる気はちっともないようだったが、周を抱えたままごろりと横を向いたので、ようやく圧迫感から解放された。
「子どもみたいなんですもの」
「そう……そうだね。僕のこの身体は、君から血を分け与えられて現実に生み出されたものなのだから、ある意味では、間違っていないかもしれないね」
「こんな大きな子を産んだ覚えはありませんよ」
「ふふふ、」
腰に回された歌仙の腕が、徐に背中を這いずった。腰帯を解こうとしているらしい。周は半ば呆れながら、覚束ない指付きの歌仙の手を一旦退けて、結び目に自分の指を差し入れた。帯を解くと、待ち構えていたかのように、襟から歌仙の手が入り込んでくる。直に触れる彼の手はひんやりと冷たくて、腹を撫でられると擽ったくてしょうがない。するすると肌を撫で回していた彼の手は最終的に胸のあたりで止まり、愛しくて仕方ないとでもいいたげに、乳房に顔を寄せてくる。
「ああ……君の肌は心地いい。こうしていると、安心するんだ……温かくて柔らかくて、君がしっかり生きていることがよくわかる」
「わたしが?」
「ああ、君が」
妙なことを言うな、と思った。彼が、本物の人間と同じように生きているのだと分かると安心できるのは、周の方も同じだ。藤紫の髪にすっと指を通して撫ぜる。彼の髪はいつも丁寧に手入れされていて、絡むことなく指をすり抜けていく。
「……しっかりと生きているのは、あなたもそうでしょう。直に触れていると、あなたが人間の体を持っていて、ちゃんと心臓が動いているとわかってほっとするから、わたしも、こうしているのが好きです」
「ああ、そう、そうだね」
歌仙が頷くような仕草をすると、髪が肌をさらってひどく擽ったい。小さく笑い声を立てると、それに気付いた彼は重そうに体を持ち上げた。酒に浮かされてとろんとした緑青の眼は、それでもしっかりと周の瞳を映している。
「めぐり」
久々に名前で呼ばれて、周はぎくりとした。彼の唇がぐっと近づいてきたかと思えば、気が付いたときにはもう、自分のそれに優しく重ね合わされていた。
周は、たまに、この男が何を考えているのかわからなくなることがある。
それは、彼をはじめの一振りに選んで審神者となったすぐの頃は勿論、想いを通じ合わせたあとも、人の世に戻れなくなると承知で魂を契ってからも。歌仙は周が想像していたよりもずっと自由気ままで、そして何よりも「人」らしい。彼を形づくる意識の根本的な部分は「刀」であるくせに、彼は周の前で人らしく振る舞い、人と同じように周を愛した。
ぽたり、と、剥き出しの胸に水滴が落ちたことに気がついて、周は固く閉じていた目を開けた。歌仙の顎から滑り落ちた汗だった。着物を乱雑にはだけて、肩で息をしながら女を貪る彼が、人以外の何に見えようか。周は微笑んだ。
「歌仙」
声を出してみると、喉が少し、変になってしまったような感じがする。
周の隣に倒れ込むように転がった歌仙の頬をそっと撫でて、口付けを強請れば、彼はすぐに与えてくれる。逞しい胸に頬を擦り寄せると、彼の長い指が汗ばんだ髪をゆるく梳いた。
「生きている」
鍛え上げられた筋肉の奥から、どくどくと脈を打つ鼓動が響いてくる。
生きている。彼の生を何よりも近くで実感できるこの行為が、周は好きだった。
「そうとも。君も僕もここにいるんだ」
分かりきったことを言わないでくれとでも言いそうな口調で、歌仙はそう言う。「そう、そうね。あなたもわたしも、」と顔を上げた時、既に彼は穏やかな寝息を立てていた。