パッと飛び散った血が、砂の上に投げ出していた手の甲に掛かった。
彼が気を失って倒れ込むのが、妙にゆっくり、スローモーションに見える。

「かっ、花京院! 花京院がやられたッ! 花京院が目をッ!!」

酷く取り乱したポルナレフが彼を抱き止めた。真生子も上体を起こし、花京院の腕に触れる。やはり意識は無いようだった。二本、顔に縦に引かれた赤い線から、ダラダラと赤黒い液体が流れ出していた。
こんなに近くにいたのに、と真生子は思った。隣にいたのに、何もできなかった。早く、治さなくては。治癒のスタンドを持つ自分にしか出来ないのだ。
心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。頭からさあっと血が引いて、手足が冷たくなり、視界がぐるぐる回り始める。パニックのあまり、過呼吸を起こしていた。

「落ち着け! 二人とも、スタンドを出して身を守れ!」

祖父の声が飛んで来て、真生子は我に返った。
胸の痛みと動悸は収まっていない。浅い呼吸しか出来ず、苦しい。スタンドを呼び出さなくてはならない。真生子は胸のスカーフを掴み、ぎゅっと身体を丸めた。
ポルナレフが「戦車」を出す前に、彼が地面に突いた手の下から、ジュワジュワと水が溢れ出してきた。液体は鋭い爪を持つ悪魔の手の形へ変化してゆく。それが敵のスタンドだった。
救援物資を届けに来ただけのSPW財団の職員が、水に食い千切られるように頭を切断された、あの一瞬の光景がフラッシュバックする。忽ち吐気が込み上げて来て、真生子は前屈みに身体を曲げた。このまま心臓が破裂して死んでしまうのではないかと考える程に苦しかった。その前に、あのスタンドにやられるかも、と考える余裕も無くなっていた。
不意に、その財団職員が身に付けていた腕時計のアラームが鳴り響いた。今にもポルナレフを襲おうとしていた水のスタンドは方向を変え、職員の腕に向かって斬りかかる。音に反応しているのだ──と真生子が理解する前に、ポルナレフに腕を掴まれて立たされていた。

「車まで走れッ!」

右腕に花京院を抱え、左手で真生子を引っ張りながら、ポルナレフがジープに向かって駆け出す。敵スタンドは直ぐにそれを察知した。素早く向きを変えて猛スピードで追い掛けてくる。真生子はポルナレフよりも後ろを走っている。下手くそな呼吸をどうにかして繰り返しながら、真生子は懸命に足を動かした。どう考えても、間に合わない。

「うおおおおおッ!」

雄叫びを上げたポルナレフに、急に前へ腕を引っ張られ、真生子はつんのめった。無防備な背中を思い切り突き飛ばされ、半ば転がるようにジープに駆け寄る。先程まで真生子の脚があった場所を水が薙ぎ払い、ポルナレフの足首に横一直線の傷が走った。真生子は承太郎に乱暴に胴体を持ち上げられ、ジープへ乗り上げた。

「引き上げろ!」

攻撃を受けた衝撃で吹っ飛んだポルナレフと花京院を、ジョセフとアヴドゥルがどうにか受け止める。何とか全員がジープの荷台に避難できた。

「か……花京院はどうだ?」
「まずい……失明の危険がある」

承太郎とポルナレフが花京院を覗き込んでいる。失明、と聞こえて真生子はクラクラした。
早く治さなくては。自分がやらなくては。
そのために、早くスタンドを出さなくてはならない。

「いかん、過呼吸を起こしとる」

はあはあと呼吸を繰り返すばかりの真生子に気付き、祖父は腰に括り付けていた皮袋の中身を空けると、それを孫娘の口元へ当てがった。落ち着け、と言い聞かせられながら背中を摩られ、されるがままに袋の中で呼吸を続けているうちに、どうにか発作は収まった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

それでも尚、祖父の胸にしがみついたまま、真生子は譫言のようにそう繰り返すことしか出来なかった。
ある決定的なものが心の中から失われ、欠けている。それに、気付いてしまった。いつからそうであったのかは、自分でも分からなかった。

「謝るのはいいから、早く二人の傷を看ておやり」

真生子はびくりと肩を震わせ、ポルナレフと花京院を見た。

「おれは大丈夫だ、先に花京院を……」
「ごめんなさい」

震える声で吐き出した台詞に、ポルナレフはゆっくりと目を見開いた。
自分の意思とは無関係に、ぼたぼたと涙が零れ落ちている。皆の前では泣きたくなかったのに、と情けない思いになるが、止めることが出来なかった。頬から滑り落ちた雫はジープの荷台に落ち、太陽の日差しに蒸発して消えてゆく。
絶望、焦燥、虚無感、悔恨。
様々な感情がごちゃ混ぜになり、胸の中をいっぱいに埋め尽くす。嘔吐感が込み上げてくる。それを押し留め、口から漏れたのはやはり謝罪の言葉であった。

「真生子」

強く肩を掴まれ、振り返ると兄が険しい顔をして自分を見ていた。

「出来ないのか」

深いエメラルドの双眸が、真っ直ぐに真生子を突き刺している。罪を咎める審判のような視線。妹と揃いの色をした、正義を宿すその瞳を、直視することが出来なかった。

「スタンドが、出せないんだな」

俯いて頷くばかりの真生子を、糾弾する者は誰もいなかった。


◆◇◆


もって、あと二週間ほどかと。

あの日、SPW財団の職員の口から告げられた残り時間に、真生子は焦り、絶望していた。あと十数日で、あの陽気で美しい母は死ぬ。シダの蔓のようなヴィジョンが全身をびっしりと覆い尽くし、高熱に魘されながら意識を失って、そのまま二度と目覚めないのだという。
言われずとも、自分たちに残された猶予がどれ位なのかは把握していたつもりではあった。しかし改めて具体的な日数を聞かされては、真生子は逸る気持ちを抑えることが出来なかった。
早くカイロへ辿り着かなければ、と、そう思っていた。母を救う為、日本から遥々こんなところまでやって来たのだ。母の為。それが真生子を突き動かす最も大きな原動力となっていたのは言うまでもない。
しかし、脆弱な気持ちは揺らぐ。
自分たちの所為で、無関係の多くの人命が失われている。飛行機に乗り合わせていた乗客達とパイロット、香港でチャーターした船の船長と乗組員、そしてSPW財団の職員達。彼らはスタンドに対抗する術を持たない。一歩一歩、真生子達が目的地に近づく度、踏み越える屍の数は増えて行く。当然、仲間内にそれを寛容している者は居ない。皆、彼等の命を背負い、受け止め、どれだけ傷だらけになってもただひたすらに前を向いて進み続けている。しかし、優しいこどもであるとしばしば評される真生子は、誰よりも犠牲を悼み、後悔し、仲間の負傷を目にする度に苦しんでいた。

進まなくては、母が死ぬ。
進めば、仲間が、無関係の者たちが傷つく。

がむしゃらに皆の背中を追い掛け、必死になって応戦し、後方支援を続けてきた真生子は、今ここになって立ち止まってしまった。
──戦いたくない。
財団職員が無残に命を落とし、目の前で花京院が負傷したあの瞬間、真生子の中にあった、元より頼りない僅かな戦意は完全に失われてしまっていた。それ以降、旅の始まりから真生子に寄り添っていた半透明の半身は、どれだけ強く願っても姿を現さなかった。

「戦うのが辛いか?」

祖父の、気遣うような声色に、真生子は頷くこともせずただ黙っていた。
アスワンの病院の待合室は、治療に訪れた現地の人々や看護婦達で溢れ返っている。異国の旅人達へ向けられる、無遠慮な好奇の視線を感じながら、真生子はベンチの上で項垂れていた。
スカートの上に乗せた手には、砂漠で負った些細な擦り傷や切り傷、ミミズ腫れが残っている。普段ならば、無意識的に発動されるスタンドの治癒効果が働き、その程度の負傷は一瞬で治ってしまうのだが、今は違う。鈍く痛むその傷を眺めていると、「彼女」は真生子の中に居ないのだと、改めて喪失感が湧き上がってくる。
ジョセフの問い掛けを、真生子は肯定してしまいたかった。辛く苦しいのは事実であった。しかしそうしてしまえば、祖父は直ぐにでも孫娘を日本へ送り返すだろう。戦いたくはないが、東京へ帰るつもりもなかった。
自分がどうしたいのか、どうすべきなのかを、完全に見失ってしまっていた。

「アヴドゥルは明日にも退院出来るそうじゃ」
「……花京院くんは?」
「失明の危険は免れたが、包帯が外れるまで一週間はかかる」

そう、という生返事の裏で、真生子は安堵していた。彼が永久に光を失ってしまうのではないかと心配で堪らなかったのだ。

「会いに行ってはどうじゃ」

しかし、そう優しく提案されても、真生子は首を縦には振れなかった。どんな顔をして病室に入れば良いのか分からなかった。彼の目が見えないのだと知っていても。

「真生子」

呼ばれて顔を上げると、ジョセフは真剣な目でこちらを見据えている。

「スタンドとは、精神力の作るヴィジョン……お前の気の持ちようや考え、心の強さによって変化する。お前の『海の星』は消滅したのではない。ただ、現れないだけじゃ。お前さん自身が、スタンドを呼び出したくないと拒んでおるのだ」
「そ、そんなことは、」
「真生子、お前が必死にスタンドを出そうとしているのは、わしもよーく分かっとるよ。無意識の領域の話なんじゃ……お前自身も気付かない、心の奥底の問題なんじゃよ」

祖父は決して怒っているのではなく、幼い子供に良く言い聞かせるかのようにそう説明した。そんな丁寧な解説にも、真生子はかぶりを振り続ける。
認めたくなかった。自分自身が「彼女」を拒んでいるなどと。あれからずっと、ずっと呼び出し続けているのだ。こんなに求めているのに、一向に現れぬ半身に、真生子は苛立ちすら感じ始めていた。
再び俯いた真生子の頭に、ぽんとジョセフの大きな手が被せられた。髪を撫でるその手に、ぎゅっと涙が滲みそうになる。

「わしらは明日の朝には出発する。それまでに、どうしたいのか決めなさい」
「どうしたいのか……」
「日本に帰るか、旅を続けるか……それか、花京院と一緒にアスワンに残るか」

この街に残る、という新たな選択肢に、真生子の心は揺れる。
旅をやめるつもりは無いが、スタンドを使えぬ今、彼らと共に次の街へ旅立っても、足を引っ張ってしまうだけだ。

「わしはな、本当はお前を日本に帰したいんじゃ。だが、そうするつもりはないんじゃろう」
「…………」
「……辛かったなぁ……真生子。早く気付いてやれなくて、すまんかった……」

ぎゅっと肩に回された腕があまりにも優しくて、真生子はまた泣きそうになってしまう。
必死に首を横に振り、そんなこと無い、と繰り返しながら、祖父の首元に顔を押し付けた。
草臥れたベージュのシャツからは、砂塵と汗の混じった匂いが微かにした。