白藍色の空は高く、雲の無い突き抜けるような天からぬるい風が吹き付けてくる。
外部から招かれた医師を受け入れたことにより、病院には俄かに慌ただしい雰囲気が漂っていた。ロビーから玄関へ出ると、正門の前に見慣れたジープが停められ、SPW財団から派遣されてやってきた職員が資材を積み込んでいる。

「花京院の面倒をよく見るんじゃぞ」

運転席から身を乗り出したジョセフは、そう言うと真生子を近くまで呼び寄せた。体を屈めて顔を寄せると、頬に熱烈な挨拶のキスを振る舞われる。「気を付けてね」と不安げに眉を寄せる孫娘を安心させるように、祖父はチャーミングなウインクで応えた。
車が動き出す。通り過ぎる一瞬、後部座席の承太郎と目が合った。兄妹でお揃いの、緑の視線が交差する。彼の唇が薄く動いた。何と言ったのか、読み取る前にジープは砂塵を吹き上げながら走り去った。アヴドゥルとポルナレフが、車内で軽く手を上げて真生子に別れを告げている。兄が後ろを振り返っている。その表情は、遠く離れすぎて窺えなかった。ただ、彼が自分を心配しているのだ、とだけ分かった。
砂埃に塗れたジープの後ろ姿が見えなくなるまで、真生子はその場に突っ立っていた。

車輪を模したマークを胸に付けた医師達が病室から出て来る。ドアの前のベンチでぼうっとしていた真生子を見つけると、彼らは軽く会釈して去って行った。それを見送り、ゆっくりと立ち上がると、恐る恐る、慎重に扉をノックした。すぐに、中から穏やかな声が返ってくる。そっとドアを押し開くと、光に溢れた病室の様相が目に飛び込んできた。
それほど広くはない個室の、窓際にベッドが設えられている。花京院は上体を起こしていた。包帯に覆われ、何も見えないはずの目を此方へ向けている。ドアを閉めてから数秒間、真生子は何と話を切り出そうか迷っていた。

「真生子かい?」
「えっ……」

口を開く前に呼ばれ、思わず気の抜けた声が漏れる。「どうして分かったの?」とベッド脇の椅子に腰掛けながら訊くと、彼は足音で分かるのだと言った。

「ジョースターさんから全部聞いたよ。君もこの街に残るって」

真生子は俯いた。膝に乗せた手が震えている。

「ごめんなさい……」

その蚊の鳴くような声を、花京院はちゃんと聞き取ったらしい。
彼はベッドの上に投げ出していた右手を宙に彷徨わせ、何かを探し始めた。それが、とん、と真生子の肩にぶつかると、彼は腕を辿って手を下ろし、震える拳を探り当てた。

「何故謝るんだ?」

もの柔らかな問い掛け。彼の態度があまりにも優しくて、真生子は申し訳のない気持ちでいっぱいになってしまう。

「……あの時……すぐに治せていたら、花京院くんは……」
「そのことで、君が責任を感じる必要はない」

重ねた手を、ぎゅっと力を込めて握り締められる。彼の手は熱く僅かに汗ばみ、同時に自分の指先が驚くほど冷え込んでいることに気付かされた。

「君は……日本に帰った方が良い」

真生子は顔を上げた。見えないはずなのに、彼の目は包帯と傷ついた瞼越しに真生子を真っ直ぐに見詰めている。あの美しい鳶色の瞳を思い出し、一瞬、彼が見えないのだということを忘れて、頭を横に振った。

「日本へは戻らない」

驚くほどするりと出た言葉に、自分でも少し驚いてしまう。
日本へは絶対に帰らない、という意志だけが、今の真生子の中で唯一強固に定まっていた。それは希望ではなく、揺るぎない決定だった。

「ぼくは、これ以上君に傷ついて欲しくないんだ」
「わたし……わたしだって、あなたを日本へ帰したい」

ぼくを? と花京院は驚いたように息を詰めた。それを肯い、真生子は指に力を込める。

「だって、DIOとジョースター家の因縁にあなたは直接的には関係ないでしょう。確かに、肉の芽の件があるかもしれないけど、それでも、わたしは……これ以上は……あなたを危険な目に遭わせたくない。もう、わたしには、怪我を治せない……」

花京院は黙ってそれを聞いていた。長く薄い溜め息を吐き出し、窓の方を向く。薄いカーテン越しに、柔らかい昼の日の光が差し、少し開けられた窓からは温い風が吹き込んでいた。
真生子は、彼を怒らせてしまったか、と考えていた。昨日から一晩掛けて考えた必死の提案だった。しかしそれを、花京院は優しく拒んでしまう。

「ぼくは旅をやめないよ」

「どうして」と尋ねた声には悲痛が滲み、掠れてしまっていた。「もしかして、アヴドゥルさんにも同じことを言ったの?」と花京院はクスリと笑い、真生子の方へ顔を戻す。言い当てられ、黙っていると、彼はそれを肯定と受け取ったらしかった。

「君が仲間を大事に思っているのと同じように、ぼくも大切に思っているからだ」
「…………でも、」
「君が言いたいことは分かる。でもね、真生子、ぼくは本当に、この旅が楽しいんだ」

顔を上げると、彼は穏やかに微笑んでいた。その笑顔を見る度、真生子の胸は様々な感情に押し潰され、辛く苦しくなり、涙が溢れ出してくる。

「ぼくは君たちと会うまで、ハイエロファントグリーンが見える人に出会ったことがなかった。これから先もずっと、きっと出会うことがないだろうと思っていたんだ。本当に解り合える友達なんて出来るはずがないと。でも、ジョースターさんやアヴドゥルさん、ポルナレフ、承太郎、そして君と出会えた。初めて、心が通い合える友人が出来たんだよ。ぼくは本当に君たちが大切なんだ。だから、旅をやめたりしない」

真生子は彼にばれないようにこっそりと目尻を拭った。花京院はゆっくりと言葉を続ける。

「君が帰りたくないのは、ホリィさんのことは勿論だが、仲間のことを考えているからだろう? ぼくも同じだよ」
「……うん」
「だから……泣かないで」

真生子がハッと顔を上げると、彼の手が腕伝いに頬へ上ってきた。
壊れそうなものを慎重に取り扱うかのように、恐る恐る、指先で目元に触れてくる。

「どうして、分かったの?」

二度目の同じ質問にも、花京院は微笑みながら答えた。

「見えなくたって分かる。好きな子が泣いているってことぐらい」

しんとした、穏やかな雰囲気の漂う病室に、彼の柔らかいテノールが響いた。
今なんて、と聞き返すような野暮ったいことは必要なかった。痛いくらいに真っ直ぐに心に入ってきた言葉が、頭の中で何度も何度も反復する。 見開いた目からポロポロと透明な液体が零れ、彼の指を掠めて滑り落ちて行く。
かきょういんくん、と細い声で呼ぶと、彼は親指で真生子の涙を丁寧に拭った。

「旅の始めから、ずっと君が好きだよ」

優しい声色。あ、と情けない声が小さく漏れ、心臓が急に激しく動き出す。鼓動が彼に伝わってしまいそうな程に。
初めて伝えられたストレートな好意に、動揺し困惑する真生子を、花京院は腕を引いて抱き寄せた。
胸に顔を寄せると、温もりと共に彼の匂いを感じて、真生子は目を閉じた。