それから一週間、真生子は祖父の言いつけ通り、甲斐甲斐しく花京院の世話を焼いていた。朝から病室を訪れて食事を手伝い、体が鈍るからと散歩に出掛けたがる彼の手を取って歩き、他愛のない話に花を咲かせ、夜になれば財団が用意してくれたホテルに帰って眠る。
今までの旅の中でも最も穏やかな時間は、あっという間に過ぎていった。
「午後には包帯が取れるそうだよ」
診察を終え、嬉しそうにそう言う花京院に、真生子は「そうなの」としか返せなかった。震えぬように繕ったつもりの声も、微かに揺れてしまった。
ジョセフたちは既にカイロ市街に到着し、DIOの潜伏先を捜しているという。花京院は決して口に出さなかったが、彼が少し焦り始めていることに、真生子は気付いていた。彼よりも更に焦燥感に煽られていた真生子には、心の余裕がなかった。
黙り込んでしまった真生子の心の内を察したらしい、花京院は心配そうに様子を窺っている。そんな彼に、まだスタンドは出せないの? ──と、今にも尋ねられるのではないかと、内心で血の気が引いていた。真生子はまだ、「彼女」を閉じ込める心の檻をこじ開けることが出来ないでいた。
探るように空に伸ばされた彼の手を見つけ、真生子はハッとした。慌ててそれを取って握り締める。
「今日も、外に行こうか」
彼は笑顔を作りながらそう言うと、手探りでベッドから降りる。午後になれば包帯が外せるのだから、今日はそれまで病室で待っていたら、とは言い出せなかった。彼に気を遣わせてしまったのだ、という罪悪感が胸に広がり、真生子はきまりが悪くなってしまう。それでも花京院に促されるまま、真生子は彼の手を取って誘導しながら病室の外へ連れ出した。
病院の庭には少し大きなアカシアの樹があり、その下に設えられたベンチに座ってのんびりと過ごすのが二人のお決まりとなっていた。
真生子と花京院の関係は、あれから特に進展してはいない。ただ、お互いに好意を持っているのだ、ということを確認し合っただけに過ぎなかった。今はそれで十分だと考えていた。
「なあ、真生子」
普段よりやや深刻そうに吐き出された声に、うん、と静かに応える。花京院は繋いだままの手をもどかしそうに動かした。
「本当に、日本に帰らないのか」
温い、乾いた風が吹き抜け、木々の葉を揺らして行く。地元の子供達がはしゃぎ回る声が遠くから聞こえていた。
このまま時間が止まれば良いのに。
無意識にそう考えていた自分が愚かしく、情けなかった。
「今の君は」
「わかってる」
自分のことは自分が良く分かっている。今のままでは戦えない。無理矢理カイロへ向かって承太郎たちと合流しても、役に立てないどころか邪魔になってしまう。
もう、これ以上決断を先延ばしにはしていられなかった。
「…………花京院くん……わたし、」
微かな声でそう口にした時、不意に、真生子は背中を駆け上がる電流のような、ある種の「予感」を感じた。
花京院の腕を引っ付かんだまま、ほぼ反射的に、真生子は目の前の地面へ飛び込むように体を伏せた。旅の中で身に付いた、殺気を感知する力が無意識に働いたらしかった。
ビュン、と何かが空を切る音がした。
我に返って目を開けると、先程まで彼の頭があった場所、アカシアの幹に大きな切り込みが走っていた。樹はミシミシと音を立てながら傾き始める。真生子は弾けるように立ち上がると、状況を把握出来ていない花京院の手を引っ張りながらがむしゃらに走った。建物の壁際に立ち、花京院を抱き留めながら息を整える。
「な、何が? 真生子! 今、一体何が起こったんだ、この音は!?」
地響きを立てながら樹が倒れ、周囲にいた人々が慌てふためいて逃げ惑い始める。辺りを見回すが、犯人と思しき人物を見つけることは出来なかった。
ひゅんっ、空を切る音が聞こえたと思った途端、真生子の真横の壁に「何か」が衝突した。破壊音と共にバラバラと粉塵が舞う。その一瞬、真生子の目はその飛来物の姿を僅かに捉えていた。
実体のある物を投げつけられたのではなかった。「風」だ。風で出来た刃だった。
真生子は確信した。スタンド使いだ。空気を操る力を持つようだが、命中精度はそこまで高くないらしい。そして、連射も出来ないようだ。
ふと隣の花京院を見ると、ハイエロファントグリーンを呼び出して辺りを警戒している。真生子は次の攻撃に備え、彼の腕を引いて走り出した。
「花京院くんは、病院に戻っ──」
「ダメだ!」
彼にしては珍しい、強い口調に真生子は目を丸くする。花京院は手を固く握り締めながら「今の君を一人に出来る訳ないだろ」と言った。
「このまま誘導してくれ。手を引いてくれたら走れるから。ぼくは君を信じている」
信じている。その言葉に真生子は肩を震わせた。
走りながら振り向くと、騒ぎで混乱する人混みの中、真生子達を追い掛けてくる人影があるのを見つけた。
あんな場所で戦っては、通行人に被害が出る。真生子は花京院の手を引いたまま、出来るだけ人の少ない路地を通って走り続けた。
時折飛んでくる衝撃波を何とかして避け続け、花京院を庇いながら、住宅と住宅の間の細い道を抜け続ける。逃げ切ろうとは思っていなかった。あれがDIOの差し向けた追っ手で、花京院と真生子を始末せよという命が下されているならば、一度見つかった以上、どこに居ても必ず探り出して襲って来るだろう。アスワンから出させないつもりに違いない。この場で倒さなくてはいけないのだ、と考えていた。
その間、真生子は自身の半身を呼び出し続けていたが、こんな状況でも一向に姿を現さなかった。戦わなくては、という気持ちはある。だというのに「彼女」が現れないのは、何か大切な気持ちを忘れているからかもしれない。唯の闘争心ではなく、もっと別の何かが。
建物の角を曲がった瞬間に地面が抉れ、壁が弾けて瓦礫が降る。それをどうにか避けながら必死で頭を働かせていた。勝つためには、何か、策が必要だった。
しかし、次の角を曲がった瞬間、真生子は絶望することになる。行き止まりだ。三方が建物に囲まれ、飛び越える事も出来ない。
花京院を後ろに庇いながら、真生子は意を決して振り返った。
頭にターバンを巻いた男が一人、ゆらりと歩いて来る。後ずさると、背中に壁がぶつかった。万事休すか──男を睨めつけると、彼はニタニタと気色の悪い笑みを浮かべた。
「気付いていたか? おれはがむしゃらにお前たちを攻撃していたのではない。この袋小路に追い込むために誘導していたのだ」
「お前はDIOの手下か?」
花京院の問いを肯定し、男はバッと上体を反らして空を見上げた。DIOに陶酔し切っているらしい、恍惚とした表情を浮かべている。
「ああ、DIO様……あのお方は、この落ちこぼれのおれに機会を与えて下さった……空条真生子、花京院典明! 貴様らを始末すれば、DIO様はおれを側近としてお館に置いて下さると仰っている……DIO様! おれの、この風のスタンド──イーブル・ウィンドで、必ずやこいつらを仕留めて見せます」
真生子は男に聞こえぬよう、こっそりと花京院の名を呼んだ。彼は「分かっている」と答え、ハイエロファントグリーンの手を前方へ突き出す。煌めく緑色の体液がその手から漏れ出し、力を溜め込む。
「喰らえッ、エメラルド──」
「──アホか、テメーッ!!」
男は人が変わったように叫ぶと、腕を薙ぎ払った。体がブレて見えたかと思うと、鳥のような、蝙蝠のような奇妙な姿のスタンドが姿を現した。「法皇」が打ち出した無数のエネルギーの結晶弾が宙を切り飛んで行く。蝙蝠が腕を広げると、忽ち嵐が辺りに巻き起こり、男の前に、真生子たち二人の周囲に風の壁を作った。エメラルドスプラッシュは軌道を逸らされ、弾かれてしまう。花京院が小さく舌を打ったのが聞こえた。
「目が見えねー癖に! おれに攻撃を当てられると思うなッ!」
「花京院くん!」
彼が狙われていると気付き、真生子は花京院を突き飛ばした。嵐の壁の中から飛んできた風の刃は肩を掠め、その衝撃で背後の壁に背中を打った。激痛に呻きながら肩を押さえる。直撃を免れたために擦り傷で済んだものの、モロに食らっては一発でやられてしまうだろう。風の壁を無理矢理突破しようとしても、体が粉微塵になるに違いない。二人は完全に、邪悪な風の名を冠するスタンドの術中に嵌ってしまっていた。
「空条真生子! お前、スタンドが使えなくなっちまったんだってな。とんでもねえ役立たずじゃあねーか!! だから他の連中に見捨てられてアスワンに置いて行かれたんだろ? ああ!? アハハ、ハハハハハ!!」
真生子は唇を噛み締め、挑発に耐えた。言い返せなかった。役立たずどころか足を引っ張るばかりで、事実、こうして仲間を危険に晒してしまっていた。
男は次の攻撃のタイミングを見計らっているらしい。風で巻き上がった砂塵の向こうに、楽しそうに高笑いをする姿が見える。不定期に攻撃することで恐怖を煽り、その様子を楽しんでいるのかもしれない。彼は自分の勝利を確信している様子だった。
焦りからダラダラと汗が零れ落ちる。真生子は動けなくなってしまった。
どうしたらいい、どうすればいいのだ。真生子は相変わらずステラ・マリスを召喚し続けていたが、何も起きなかった。
どうしようもなかった。
「真生子ッ!」
音と「法皇」で居場所を探り当てたらしい、花京院が壁伝いに駆け寄ってきた。
腕を宙に彷徨わせて辺りを探り、真生子を見つけ出すと、男に背を向けて抱き締めてくる。
真生子を庇うように。
「何してるの? ダメ! どいて、お願い!」
「真生子」
胸を突き放そうとした手を掴まれ、真生子はハッとした。彼の見えぬ目は、やはり真っ直ぐに真生子の瞳を見据えている。
時間が止まったような、世界の全てが静止して、二人だけ取り残されてしまったような愚かしい錯覚。轟々と吹き荒れる風の音は遠くへ消え失せ、真生子ははっきりと、彼の唇から発せられた言葉を耳にした。
「ぼくは、死ぬのは怖くないんだ」
花京院はうっすらと微笑みすら浮かべていた。真生子は涙を溢しながら、その笑顔を茫然と眺めていた。
わたしは一体……何をしているのだろう。
とても、大切なことを忘れていた。
日本を発つ時、空港でアヴドゥルはなんと言ったか。自信を持つこと──不安を乗り越えて自分を信じることがスタンドを強くするのだと彼は言った。そして、「星」のカード。逆向きにそれを引いた真生子に向かって、星のカードは正逆問わず「希望」を意味するのだとアヴドゥルは教えてくれた。
さっき花京院は「信じている」と言った。真生子自身が自分を信じられていないというのに、それを分かっていても尚、彼はそう口にしたのだ。だというのに、これではその言葉に応えられているとは言えない。
あの日、飛行機で初めてスタンドが明確なヴィジョンを取った時。その時、自分は何を願ったか。夜明けの空の上で、月の傍に寄り添うように浮かんでいた一粒の星、明けの明星が脳裏に蘇る。
その、聖母の名を冠する海の星に、一体何を願い、何を思ってその名を半身へ与えたのか。
──皆を護りたい。
兄を、祖父を、母を、仲間たちを。花京院くんを。
思えば、今まで皆に助けられ、守るどころか守られていただけだったのではないか。戦いが終わった後に、疲れ傷ついた皆を癒し、後ろからサポートするばかりだった。旅が進むにつれ、傷を治すことだけが自分の役割だと考えていた。自分に出来ることはそれしかないのだと。しかし、ただ「治療をする」ということが使命なのではない。
今度は、わたしが護りたい。
花京院の胸に突いた自分の手が、ふと目に入った。無数にあった細かな傷は既に姿を消し、僅かな治癒痕となって残っていた。
砂埃の嵐の向こうで、蝙蝠のヴィジョンが羽を広げている。攻撃の前動作だった。真生子は自然と、すうっと流れるような動作で腕を上げ、男に指先を向ける。呼び掛けるような、細い、それでいて強い意志を含んだ声で、聖母を意味する「彼女」の名を呼んだ。
「──ステラ・マリス!」
伸ばした指の輪郭がブレて、白く発光する腕が分離する。つるりとした陶器のような肌、鮮やかな唇。金の茨で覆われていた筈の目は、真生子と同じ、鮮やかなエメラルド・グリーンをしていた。
男へ突き付けた指先が、強く瞬いた。異変に気付いた男が風の刃を飛ばすよりも早く、指先から一直線に、真っ直ぐに光の筋が放たれた。汚らしい悲鳴が路地に響き渡り、嵐の壁が掻き消える。高密度に圧縮された光の槍は、レーザーのように直線上の物質を焼き切り、男の脇腹を貫いていた。風で出来た壁は何の防御にもならなかった。
「今だッ! エメラルドスプラッシュ!」
男の声を聞き取り、場所を把握した花京院が指示すると、彼のスタンドは再び翡翠の煌めきを持つ弾丸を解き放った。それを防ぐ暇も無く、全身に緑の破片を喰らった男は遥か後方へ吹っ飛ばされて行った。遠くで、重たいものが地面に落ちる音がした。
真生子は暫く茫然としていた。
真横に佇んでいた白い人影は、溶け込むように真生子の中へ還ってきた。
腰から力が抜け、その場へへたり込むと、真生子の肩を抱いていた花京院も同じように座り込んだ。
「戻って来たんだね」
微笑み掛けられて、もう何も言えなくなってしまう。彼の広い胸に顔を埋めながら、真生子は何度も頷いた。
彼の目にそっと手を伸ばし、瞼の傷を治す為に包帯の上から触れようとすると、花京院はそれを優しく制した。
「いいんだ」
「どうして?」
「いいんだよ」
強く抱き締められ、少しの間、そのまま寄り添っていた。