暗闇に沈み始めた滑走路の上には等間隔で光が並び、幾つかの航空機が停まり、時折場所を替えている。その数キロ向こうには空港の関係施設や併設ホテルが存在しているのが遠目に見えた。滑るように動いていた一つの機体がスピードを上げ、地上から離れてゆくのを、真生子はレストハウス内のレストランの一画、窓際の席に座ってぼんやりと見つめていた。
「真生子、腹が空いとらんのか? 昼食も摂らなかったじゃろう」
斜め前から掛けられた声に振り向くと、顔を険しくした祖父が真生子の手元を見つめている。スプーンを片手に持っているが、一口二口食べただけで殆ど進んでいないのを心配しているらしい。真生子は大丈夫だと首を横に振ったものの、数口食べ進めたところで辛くなってしまう。与えられた食事をモソモソと少しずつ処理している間に、他の男たち四人はさっさと食べ終えてしまったらしい。それを信じられない思いで横目に見つつ、真生子はちまちまとスプーンを動かした。
「カイロ行きは二十時三十分発でしたね。まだ搭乗手続きまでけっこう時間がある」
花京院は自分の腕時計を見る。ジョセフは頷き、ウェイトレスが運んできた食後のコーヒーを口元へ運んだ。
「カイロに着いたとして、DIOの居場所をすぐに突き止めることが出来るとは思えん」
「現地でまた念写をしてはどうです」
「うむ……それで潜伏場所の手掛かりが少しでも掴めればよいが」
「…………」
会話を聞き、陰鬱な気分になりながら半分ほどになったオムライスを黙って見下ろしていると、横から大きな手が突き出されて真生子は怯んだ。隣に座る兄の手だった。「遅え。食えねーなら寄越せ」「あ、うん」言われるままスプーンを渡すと、彼は三口程で皿を空けてしまった。こういう場面に遭った時、「食べられないなら残せばいい」とは彼は言わない。「値段以下の味の料理を出す店」では、そうとも限らないが。あっという間に綺麗になった皿を見て唖然としていると、「お、全部食べたのか。デザートはどうじゃ」と呑気な調子の祖父がメニューを開こうとするものだから慌てて固辞した。
ウェイターが持ってきた紅茶を、礼を言って受け取る。窓の方をふと見ると、酷く憔悴し切った顔の少女が映っていて、真生子は情けない思いになった。これからエジプトでDIOを倒さねばならないというのに、出発前からこのような調子ではまともに戦えないだろう──そもそもそれ以前の問題が真生子にはあった。
カップの持ち手に添えた手に集中すると、輪郭がぶれ、白くぼんやりと輝く手が重なっているように見える。もっと意識すれば、そのまま本体から分離させることも出来るようになっていた。しかしそうしても、真生子の半身は明確な輪郭を描かず、なんとなくの色形や姿は分かれど、ぼんやりとしたヴィジョンにしかならない。真生子は焦っていた。一週間ほど前に発現したばかりだから、という言い訳は出来なかった。隣にいる兄の承太郎はすでに形のはっきりしたスタンドを使いこなしているのだから。真生子に才能がないのではない。足りないのは闘争心だ。母をなんとかして救いたいと思う気持ちがスタンドの暴走を抑制しているのだとしても、元々喧騒や争いごとの苦手な真生子には積極的に闘おうという意思がまだ芽生えていない。道中で練習すればいいと祖父は言うが、それでは間に合わない。
何か出来ることがある──そう思っていたが、これではただ勢いと感情に身を任せ、何の考え無しにひっ着いてきた足手まといにしかならないかもしれない。
「……真生子」
低く落ち着いた声で呼ばれて、真生子は我に返って顔を上げた。正面に座っている異国の占星術師が、懐から商売道具を取り出しながらこちらを見つめていた。
「君のスタンドにはまだ名前がなかったな」
「え?」
机の上にタロットを置くと、アヴドゥルはそれを真生子が混ぜるように指示した。言いつけられた通りにカードをシャッフルしながら、僅かに指先が震えるのを隠せない。周りの兄や祖父、花京院をチラリと見ると、皆こちらに注目している。
「さあ、一枚選べ」
真生子は躊躇いながらも、一枚のカードを手に取り、表に返した。
「あれ……?」
二つの水瓶を両手に持ち、ターバンを巻いた男の姿が描かれている。真生子は目を瞬いた。カードの番号は十七番、「THE STAR」と目立つレタリングで書き込まれていた。ただし、絵柄とは逆向きに引いてしまったために逆さになっている。
兄の承太郎が持つスタンド──スタープラチナはタロットの大アルカナ「星」を啓示する。同じカードを象徴するスタンドが現れることがあるのだろうか。それとも、引くべきものではない札を引いてしまったのか。真生子は困惑し、たじろぎながらアヴドゥルを見上げた。
「星の逆位置だ」
彼は混乱した様子を見せず、真生子がそっと差し出した「星」を受け取り眺めた。逆位置、という言葉に、心の中に不安や翳りが生まれる。タロットはカードの絵柄だけでなく、表に返した時の天地の方向によっても意味が異なるのだ、という話を聞いたのを思い出した。そして、大抵の場合、逆位置になったカードにはあまり良い意味では無いのだと。
「アヴドゥルさん……わたし……あの……」
居た堪れない。靴の爪先を擦り合わせ、真生子は俯いた。周りの者たちは何も言わずにアヴドゥルの分析を待っている。隣の承太郎も、相変わらず黙っている。
なぜ、よりによって兄と同じカードを引き当ててしまったのだろう。パワーもスピードも精密さも、全てが最強のスタンド「スタープラチナ」と、真生子の朧げなそれでは比べ物にならない事は火を見るよりも明らかだった。そして、カードが逆位置で示されたことで、まるで承太郎と真生子が正反対の存在であるのだと告げられたかのような気分に陥り、途轍もない劣等感と羞恥心が胸の中をグルグルと渦巻いた。
「真生子、安心してよく聞きなさい」
気付かぬうちに瞑っていた目を開けると、穏やかな微笑みを湛えたままのアヴドゥルが、視線を合わせていた。
「星のカードの意味するものは希望だ。このカードが現れた時、正でも逆でも、その者は明るい可能性や未来を持っているということを示している」
「希望?」
鸚鵡返しに尋ねると、彼は力強く頷いた。
「だが、承太郎は正位置、君は逆位置のカードを引いた。その違いはなんだと思う?」
「……?」
「いいか、君は悲観的に少し考え過ぎる所がある。今もそうだっただろう」
真生子は思わず黙る。それを肯定の意味だと捉えたらしく、アヴドゥルは机の上のカードを集め、整えつつ言葉を続けた。
「承太郎は、そういう意味では君とは正反対かもしれんな。前向きで自分に自信を持っている。それがスタンドの強さに繋がっているのだ」
兄がフンと小さく鼻を鳴らしたのを、真生子は聞き逃さなかった。
「自信……」
「そうだ。君は未来への可能性や希望を手にするために、不安や自信のなさを振り払い、乗り越える必要があるということだ。星の逆位置は決して悪いカードではない」
アヴドゥルは窓の方へ顔を向けた。真生子も釣られて外へ目をやる。濃紺だった空にはすでに黒い闇が広がり、その上にチラチラと白く輝く粒が垣間見えた。
「アヴドゥルさん。わたし……まだ名前はいいんです」
一瞬、彼は怪訝そうな表情を浮かべた。
「どんな姿なのかはっきりさせてから考えたいんです」
「ふむ、それがいいかもしれんな」
真生子ははにかんだ。ようやく笑った真生子に安心したらしい、アヴドゥルは僅かに口角を上げて頷いた。この人の、この話しているとホッとするような包み込まれる感覚は、父親と一緒にいる時のことを思い出させる。まだ出会って数日のこのエジプト人の男性を、真生子は既に好きになっていた。
「さて……まだ少し時間があるが、早いに越したことはないじゃろう。そろそろ行こう」
祖父のその言葉を合図に、五人は席を立った。去り際に真生子が窓を振り返ると、一機の飛行機が月を背にして旅立ってゆくのか見えた。立ち止まった真生子の背を、ぽんと叩いたのは兄だった。
「おい、置いてくぞ」
「あ……うん」
慌てて彼の後を追いながら、頭の中でアヴドゥルの言葉を繰り返していた。