自信を持てと言われても、すぐに変わることなど出来るはずがない。

国際線の出発ロビーはビジネスマンや旅行者、親子連れなど様々な目的で国外へ旅立つ人々が行き交い、混雑している。カウンター前のベンチに腰を下ろした真生子は、最低限の荷物だけを入れた小さな鞄を抱き締めていた。出国審査を待つ間、ジョセフとアヴドゥルはカウンターで航空会社の女性と何か話している。それを遠目に見つめていると、隣に座っていた承太郎が無言で立ち上がり、ふらりとどこかへ行ってしまった。それを見送ってから、真生子は俯いて自分の膝の方を見た。気付かぬうちに、僅かに震えを起こしていた。
着いたらすぐにDIOの潜伏している場所を探し始めるのだと祖父は言った。真生子は恐ろしかった。今の精神状態のまま飛行機に乗るのが怖かった。自信を持つこと、不安にならないことを改善点として挙げられたのはいいが、そう簡単に本質が変えられるはずもなかった。
今頃母はどんなに苦しんでいることだろうか。それを考える度に真生子は辛くなる。母を救いたい。その一心でここまで来たが、今までの平穏な日々からは想像もしていなかったような、死と隣り合わせの闘いがこれから待ち受けていると考えると、恐怖に身体が蝕まれてしまう。額に嫌な汗が滲む。自分から着いていくと言い出しておいて、ここまで来てやっぱり帰る、などという都合のいいことを口に出すつもりもない。それでも、恐怖を乗り越えるには真生子はまだ幼すぎた。

「……大丈夫?」

俯いた視界の端に現れた大きな手に、ビクリ、と大袈裟に肩を揺らしてしまった。
目を上げた先には、眉間に皺を寄せ、茶色い賢明な瞳で真っ直ぐに真生子を見つめる青年の姿があった。真生子はぎこちなく笑い、微かに頷いた。

この、花京院典明という青年のことを、真生子はまだよく知らない。
DIOに植え付けられた肉の芽を取り除かれ、正気を取り戻した彼は大変理知的で穏やかであり、紳士的な性質を持っている。そして、彼が十七歳で、真生子より一つ上の学年なのだ、ということも分かっている。たったのそれだけが、彼について知っていることの全てであった。
アヴドゥルとも出会って数日しか経っていないが、何日か空条家に滞在していた彼とはそれなりに話す機会があり、その人となりや経歴などは何となくではあるものの聞き及んでいる。しかし花京院と出会ったのは昨日の朝で、そして何よりちゃんとした会話がほとんどない。肉の芽を除去した後、その傷口を手当てした際に二、三言葉を交わした程度だった。

「顔色が悪いな。ジョースターさんを呼ぼうか?」

腰を浮かしかけた花京院を、真生子は首を横に振って制した。

「飛行機が……嫌いなの」

慎重に言葉を選び、絞り出した声は震えていた。 花京院は顔を顰め、じっと真生子の目を見据えている。その視線に耐えられず、真生子は顔を伏せた。みっともない言い訳だと分かっていたが、それでも虚勢を張らずにはいられなかった。握り締めた自分の手が目に入る。血の気がなく、白い。顔も同じように白ばんでいるに違いなかった。
彼は「そうか」とだけ短く返事をした。
カウンターの前のジョセフが振り返り、真生子たち学生組を呼び付けていた。花京院は立ち上がり、真生子を振り返る。差し出された大きな掌に、真生子は目を丸くする。

「さ、行こう。大丈夫。君には皆がついている」

暫し見つめ、躊躇った後、真生子はその手を取って立ち上がった。真生子の冷たくなった指と対照的に、彼の手は熱く、微かに汗ばんでいた。すぐに自然に離れ、花京院は踵を返す。

「あの……花京院さん」

カウンターへ向かって歩き出した広い背中に呼び掛けると、彼は少し首を回して振り返った。

「『さん』は止してくれ」

きょとんとした真生子に、花京院は「一つしか違わないんだから」と微笑む。

「それじゃあ……ええと……花京院くん。ありがとう」

妙に照れ臭く、靴の爪先を擦り合わせながら小さな声で言う。彼はうんと小さく頷いたような気がした。


◆◇◆


細切れになった甲虫が、血を噴き出しながら通路に転がり落ちる。
真生子はしばし呆気に取られていた。クワガタの姿をしたスタンド、「灰の塔」──タワーオブグレーは、花京院の「法王」と彼の策の前に敗れ去っていた。
カイロ行きの航空機の中という、逃げ場がない上に足元が揺れて不安定な場所で、一行は初めてDIOが差し向けた刺客に襲撃されたのである。承太郎と花京院の二人が交戦し、どちらも怪我を負っていた。そして無関係な乗客の数名が、灰の塔の攻撃で犠牲になっている。
その一連の後景を、真生子はただ恐れ戦き、怯えながら見ていただけだった。
祖父と兄、アヴドゥルが、スタンドの本体である老人の死体へと近寄っていく。承太郎とすれ違った時、その左手に痛々しい傷を見つけ、真生子はようやく我に返った。
手当しようと学ランの裾を引いて呼び止めるが、承太郎は後でいいと言って妹を押し退けてしまう。それを仕方なく見送った後、今度は床に座っている花京院の傷が心配になり、真生子はハンカチを彼に差し出した。それを見て、一瞬、花京院は面食らったような顔をした。

「ありがとう、真生子さん。洗って返すよ」

ハンカチを受け取り、口元を押さえながら、花京院は立ち上がった。空港で見せたような穏やかな微笑みを向けられ、真生子は胸の奥がぎゅうっと苦しくなってしまう。
母のホリィを助けるため、諸悪の根源でありジョースター家との因縁の相手であるDIOを倒す為、一行はこうしてカイロへ向かっている。承太郎も唇と手を怪我している。そしてジョースター家との繋がりがなくとも同行してくれている花京院までもが、と真生子は憂鬱になる。彼は、肉の芽を埋め込まれて操られていたとはいえ、本来ならばDIOとは何の関係もないのだ。ただ、彼が生来のスタンド使いであったというだけで、DIOの目に止まってしまったばかりに、彼の平穏だったであろう日々は壊されてしまった。
自分の無力さが嘆かわしく、情けない。戦うことが難しいならば、せめて仲間を守りたい。一体どうしたら皆の役に立てるだろう。どんな力を持つスタンドだったら。

「真生子さん?」

怪訝そうな声に顔を上げると、花京院は真生子の頭の後ろを驚いたように見つめている。それを怪訝に思い、斜め後ろを振り向く。自分の体の後ろから、半透明の発光する腕が突き出されるのを、真生子は見た。
つるりとした陶器のような白い肌はベールに覆われ、目は金の茨で覆い隠されている。肌と対照的に鮮やかな色をした唇が、白い横顔の中で明白なコントラストになって浮かび上がっていた。

「こ、これが真生子のスタンド……!?」
「今まではぼんやりとした光の人影だったが、こんな姿だったとは……!」

ジョセフとアヴドゥルの驚嘆の声に、真生子は応えられなかった。ただただ、驚いていた。どこかでこんな姿を見たことがある、と考えると、いつだったか、子供の頃に母に連れられて訪れた教会で見た、聖女の肖像だ、と思い当たった。
真生子の半身は、ぼんやりと光る手を花京院の顔に近付け、そのままの体勢でしばらくすると真生子の中に溶け込むように還った。その行為の意味がわからず、真生子はただ体の中に戻って来た温かいものを感じながら胸に手を置く。手を翳して、光を花京院に当てているように見えたが、「彼女」は一体どういうつもりだったのだろうか。

「……あっ!」

花京院がバッと口元に手を持って行った。驚いたように真生子を見下ろし、それからジョセフ達の方へ顔を向けた。

「怪我が治っています……さっきまで出血していた場所が……」

慌てて彼の大きな口を覗き込むと、裂けていた唇の傷が綺麗に塞がり、最初からそうであったかのように治癒していた。
真生子はポカンとして花京院を見上げ、それから祖父、アヴドゥル、兄を順に見た。

「おれはそんな想像はついてたぜ。何せ、こいつは虫も殺せねえ甘ったれだからな」

という承太郎の言葉に、思わずその場にへたり込んでしまった。

空港のレストハウスでアヴドゥルが言ったことを思い出す。自信を持つこと。その第一歩を、ようやく踏み出せたように思う。
今までぼんやりと光るばかりで何の力も持たなかった真生子の半身は、皆を護りたいというその強い願いにより覚醒したのだろう。闘いたいという意志ではなく、皆を支えたい、守りたいという思いに。
兄の傷を同じように治した後、花京院がそっと真生子に寄って耳打ちしてきた。

「真生子さん。さっきは言いそびれてしまったけど、治してくれてありがとう」

ううん、と首を横に振ると、やはり彼は穏やかに笑って見せる。
この、花京院典明という青年のことを、真生子はやはりまだよくは知らない。それでも彼の笑顔を見ると妙に胸がくすぐったくなり、真生子ははにかんでしまう。

「あのね。『さん』は止して」
「え?」
「お兄ちゃんのことだって『さん』じゃないのに」

ずっと気になっていたことをやっとの思いで述べると、彼は頷き、希望通りに名を呼んでくれた。
真生子はそれが嬉しかった。