四面楚歌。
その時、花京院典明の脳裏にはその四文字が浮かび上がっていた。
周りを取り囲む四人の表情は一様に暗く訝しげで、心の中で舌打ちしたくなる。捲り上げた制服の袖から、ぽたり、と液体が滴り落ちるのを感じ、花京院は自分の腕に目を落とした。二つの英単語が、刃物で直接肌に刻み込まれている。「BABY」「STAND」。生々しい赤い傷からは新たな血が滲み出、皮膚の上を伝って地面へ落ちた。
この状況は、非常に宜しくない。
花京院は僅かに後退り、地面に置かれた竹編みの籠をチラリと盗み見た。褐色の肌にターバンを巻いた、男の赤ちゃんが無邪気に笑っている。ぞっと背筋を這い上がるような得体の知れない恐怖に、花京院は焦っていた。
この赤ん坊こそが、DIOが差し向けたスタンド使いなのだと、疑っているのは花京院ただ一人だけだ。皆、疑問にすら思っていないのだ。「”夢”のスタンド」、しかもそれを操るのがこの生後数ヶ月の赤ん坊であるなど、客観的に考えれば確かに俄には信じ難い話かもしれない。
だからといって「花京院は旅に疲れて、おかしくなっているのだ」と決めつけられてしまうのは心外だ。それに加えて、どうにかして信用を得なくては、この砂漠の真ん中で全滅してしまう危険すらあるのだ。
もう一度、旅の仲間達の反応を伺ってみる。学帽の下から睨み付けるような視線を飛ばしてくるのは承太郎だ。彼の目には明らかに疑念が含まれている。その隣のポルナレフには、どちらかというと花京院に対する同情の色が滲んでいる。震えながら唾を飲み込む彼から目を外し、花京院は縋るように年長者を見た。しかしジョセフもまた、信じるどころか唸りながら頭を悩ませている。
ならば、と花京院は最後の一人を見た。真生子の表情からは僅かな怯えさえ読み取れる。だが、彼女の反応は他の三人の男たちとは決定的に違うものがあった。
「信じて良いのかどうか迷っている」──唯一、彼女だけが、まだ微かに「信じたい」という気持ちを持ち合わせていた。
「真生子……君も、信じてくれないのか?」
一縷の望みをかけて呼びかけると、彼女は小さくかぶりを振った。
「……今言ったことは、本当にほんとう?」
「ああ、本当だよ。ぼくを信じてくれ」
頼む、と付け加えて懇願する。真生子は暫く押し黙った。
賢そうな緑の目を丸くし、花京院を見上げる。それから周囲の者に目線を巡らせ、自身の家族二人とポルナレフ、そして赤ん坊に目をやる。最後にもう一度、彼女はこちらを向いた。
迷いの消え失せた、どこか確信めいた表情で、真生子は花京院に歩み寄った。
「分かった」
白い手がスッと伸びる。その柔らかい指先に手を掬い上げられ、花京院ははっとした。真生子は顔を上げていた。
「信じるよ」
声は柔らかくも凛として、真っ直ぐに脳髄へ染み込んできた。掴んだ手を両手でぎゅっと握り込まれる。彼女の掌は微かに汗ばんでいた。
「あなたを信じる」
ゆっくりと、一言一言を噛み砕くように吐き出された言葉。
彼女の瞳は鮮やかな輝きを宿したまま、花京院を見詰めていた。焚火と夜空の星の光を映し出し、底に宝石を散りばめたようにキラキラするその眼に、花京院は一瞬見惚れてしまう。この旅の間に築いた信頼関係と、本人は隠している心算なのだろうがバレバレの、直向きであたたかな好意、そして何より「信じたい」というその思いが、一直線に胸を貫いていた。
「ちょ、ちょっと待て、真生子! お前まで、この赤ん坊がスタンド使いだって言うのかよ!」
「あの猿のこと忘れたの?」
彼女に詰め寄っていたポルナレフはウッと唸り、言葉を詰まらせて仰け反った。
南シナ海を漂流中に出会った、「力」のスタンドを操るオランウータンは、襤褸い船を大型船へ変化させ、その凶悪な力をもって一行を翻弄した。動物に出来るのなら、人間の赤ん坊にだって出来るかもしれない、というのが真生子の弁だった。
その時、籠の中の赤ん坊が、憎々しげな舌打ちをしたような気がしたが、見回しても他の誰も気が付いてはいなかった。
「何でも疑ってかかって、用心して、注意してもしすぎることはないし、それに」
真生子はそこで言葉を切り、もう一度花京院を見た。
「花京院くんはヘンになってなんかいない。分かるの」
「分かるのって……それはのォ、真生子、お前さんが花京院に惚──」
「そうじゃないの!」
珍しく声を荒げた孫娘に、彼女を諫めようとしていたジョセフは肩を竦める。
「花京院くんは、疲れたからってこんなことするような脆い人じゃないもん!」
半ばムキになりながら、真生子はそう言い捨てた。子供が使うヘタクソな弁明のような理由の裏に、様々な感情だけではなく理性的ないくつもの根拠が塗り込められていることを、花京院はちゃんと分かっていた。胸がぎゅっと苦しくなり、鼻の奥がツンと痛む。そんな感極まりそうな花京院の様子など知らず、彼女は怒りを露わにしたまま荷物と寝袋を拾い上げ、踵を返した。
「向こうでいっしょに寝る」
「え? 真生子?」
「みんなが信じてくれないから、二人で寝るの!」
歩き出しながら手を握られたので、花京院は引き摺られるように移動しながら慌てて自分の荷物を引っ掴んだ。唖然としたまま文句も言えないでいる他のメンバーを尻目に、真生子はキャンプから少し離れた岩場へ向かって黙々と歩いて行った。
「いいのかい? あんなこと言って」
岩陰から顔を覗かせて様子を伺う。慌てふためくジョセフが何か喚いているのを、承太郎が「好きにさせてやれ」と宥めすかしている。完全に呆れモードに入っていたポルナレフは、「二人でコッソリ何するつもりなんだろうな」とジョセフを煽っていた。
誰も後を追いかけて来る様子はない。思わず溜息が漏れてしまう。
「ジョースターさんに後で、怒ら、れ」
言いながら真生子に視線を戻したところで、花京院は体を硬直させてしまった。
地面に座り込んだ彼女は、茫然と目の前の何もない空間を見つめていた。見開かれた目からボロボロと大粒の滴が零れ、頬と顎を伝って制服のスカートの上へ落ちる。
暫く絶句した後、花京院は我に返った。
「ど、どうして君が泣くんだ」
ハンカチを引っ張り出し、慌てて頬を拭ってやるが、次々と新たな涙を生み出し続けるのでキリがない。困惑しつつも彼女の肩に触れる。「泣かないで」と宥め、優しく名を呼ぶと、真生子はしゃくり上げながら「だって」と泣いた。
「みんなが……疑うばっかりで、分かってくれないから……だから……悲しくて」
彼女はしとしとと透明な雫を落とし続ける。人の痛みや苦しみがよく分かる、優しい、本当にやさしい少女だと思う。
彼女の肩を抱き締めようと伸ばしていた腕を押し留め、代わりに小さな手をそっと握り締めた。
「ありがとう」
真生子はようやく目を上げた。瞳は涙に濡れて、湖面のように揺れ動きながら花京院を映す。
その美しいエメラルド・グリーンの輝きが、花京院は好きだった。優しい眼差しで見つめられる度、甘やかな好意を向けられる度、彼女の兄や祖父、ポルナレフやアヴドゥルに見せるそれとは違う表情で笑いかけられる度、経験したことのない感情が呼び起こされるのを、痛切に感じ取っていた。
「ぼくを信じてくれて、信頼してくれてありがとう」
何度も頷き続ける真生子を、花京院は今度こそ胸に掻き抱いた。