目の前で銃殺される実の兄を、声も出せずに見つめていた。
へたり込んだナミネの頭上を怒声が飛び交う。背中にナイフを突き立てられて倒れる義父。それを受け止めて抱きしめる義兄。慌ただしい足音。撃たれた衝撃のまま、窓の外へ倒れて動かなくなった兄。その顔に被せられたままの石の仮面。
まるで他人事のように、目前の全てのものが網膜から脳みそを通って、そのまま耳から抜け出て無くなってしまう。例えるなら、観客席から舞台の上の劇を眺めているような感覚。警官のうちの一人がナミネに何か話しかけ、肩を軽く揺さぶるが、それに応えることもできなかった。
兄は本当に死んだのだろうか。少し首をあげて外をうかがうと、ぴくりとも動く様子がない。今度は義父の様子に目を向ける。ジョナサンに向かって伸ばした手がぱたりと落ちた。
自分の小さな身震いに気づいて、それを意識した途端、堰を切ったようにガタガタと全身が震え始めた。手足が冷たくなって、思うように動かない。自分の体を抱きしめるように腕を交差させる。息がうまく吸えなくて、不規則な呼吸を繰り返す。
「ジョ、ジョナ……ジョナサン……」
縋るように、小さな声を出すと、義兄はゆっくりと振り返った。顔面蒼白のまま、今ようやくナミネの存在を思い出した、といった様子で、頬には一筋の涙が伝っている。
ジョナサンはやっとのことで捻り出したような震える声で、大丈夫だからそこにいるんだよ、というようなことを言って、ジョースター郷の亡骸を抱えたまま立ち上がった。力なく垂れる父の腕は、昨日まではナミネの頭を優しく撫でてくれていたのに、もう二度と動くことはない。そのことが余計に父の死を、ひいては兄の死を痛切に実感させ、急に込み上げてきた嗚咽と涙を堪えることができなかった。
この心を、なんと表現すればいいのだろう……この、凍えるような思いを。
もう訳が分からなくて、到底理解できなくて、頭の中がおかしくなってしまいそうで。ナミネはぎゅっと目を閉じた。
と──
「──死体が無い!」
割れた窓の傍に立っていた警部が声を張り上げる。
一体何のことかとナミネは顔を上げた。その場の全員の視線が、割れた窓の方へ集まる。
不意に、何かが飛んできて頭の横を掠めた。
生ぬるい液体がはねて、頬にかかる。それが何なのか、どこから飛んできたのか──理解するのに数秒必要だった。
頭をえぐり取られた警部の体が、大きな音を立てて床に崩れ落ちた。
窓際に、ディオが立っている。
月の光を背にして、警部の頭を吹き飛ばしたらしい手から血を滴らせながら。先刻まで顔を覆っていた石仮面は剥がれ落ちて、外に置き去りにされている。自分と同じ色だったはずの一対の瞳は、ぎらぎらと赤く禍々しい色を湛えていた。
ナミネは息を飲んだ。
目の前の光景が信じられなかった。倒れていた彼は、確かに絶命していると、ナミネもジョナサンも周囲の人たちも思っていた。急所を外していた? いや、もしそうだとしても、あれだけの銃撃を受けて、立ち上がることができるなど考えられない。自分の足で窓枠を乗り越えるディオの姿を、ナミネは瞬きすることすら忘れて見上げた。
……なんて、きれいなんだろう、と。
こんな、何もかもが異常すぎる、正視に耐えないような状況で。
一瞬でもそう思ってしまった自分は、間違いなく心が壊れていた。
「兄さん」
呟くような小さな声に、兄は気付いて応えてくれた。鋭い眼光でナミネを捉え、口元を歪めて笑うと、唇の間から鋭い牙が覗く。
兄は一体……「何」になってしまったのだろう。あの石仮面を被ったせいなのだろうか。銃で撃たれた傷も、ガラスの破片で切った場所もみんな治っている。今のディオは、少なくとも「人間ではない何か」であることは確かなのに、それでも自分に向ける目だけが少し優しいところは、かつての兄と全く同じなのだ。
「そこで見ていろ、ナミネ。すぐに迎えに行ってやる」
ああ、眩暈がする。
視界がぐるぐると渦を巻きながら暗くなって、ナミネはそのまま意識を失った。
◆◇◆
見慣れぬ白い天井が見える。
ゆっくりと、目だけで周りを見回す。自分の部屋ではない、知らない場所のベッドで寝かされている。どうやら病院のようだ。何があったのか何も思い出せなくて、ぼんやりとしていると、視界に蜂蜜色の髪がチラついて見えた。
自分と少し似ているけれど、でも比べてみると確かに違う色の金髪。
ナミネはその色に見覚えがあるような気がしたが、思い出すことはできない。声を掛けるよりも早く、ナミネが目覚めたことに気付いて女性は振り返った。
「よかった……気が付いた?」
優しい微笑み。
ジョースター家に引き取られてすぐの頃に仲良くなった、少し年上の女の子の姿が重なって見える。結局その後すぐに、家族の仕事の関係でインドに引っ越してしまって、何度か手紙をやり取りしたこともあった。あれから七年程経ったが、今でもはっきりと覚えている。
「エリナ……?」
「覚えていてくれたのね。ナミネ」
「……どうして……」
「つい先日、イギリスに戻ってきたの。ここはわたしの父の病院よ」
そうだったの、と気の利かない相槌を返し、それから意識を失う前の記憶が急に蘇ってハッとなった。つい体を起こそうとすると、まだ駄目とばかりにエリナに手で制止される。仕方が無いのでシーツの中に戻ると、額の上に冷たいタオルを乗せられた。怪我はほとんどないが、心労で高熱が出ている、と説明される。言われてみると確かに、頭がぼうっとして熱い。それでもじっとしていられなくて、矢継ぎ早にエリナに問いかけた。
「ねえ、兄さんはどこ? ジョナサンは?」
「…………」
彼女は複雑そうに眉を潜めた。目を伏せると、綺麗な青い目を縁取る睫毛が揺れる。
「ジョジョは別の病室よ。まだ意識が戻っていないの……ひどい火傷と、骨折もしていて……わたしもすぐそちらへ戻らなくてはならないの」
「……兄さんは?」
「ディオは…………」
「…………しんだの?」
エリナは答えない。
その沈黙が肯定の意を示しているのだと、目覚めたばかりで回らない頭でも理解できた。
心にずっしりと重いものがのしかかる。何か言おうと思ったのに、あまりの絶望に打ちひしがれて、言葉が出てこない。
エリナは、あとでサイドテーブルの薬を飲んでおくように優しく告げた後、静かにナミネの病室を出て行った。
ジョースター卿が亡くなったということ。
ジョナサンが連れてきた警官たちも兄によって殺されたということ。
ジョナサンも重傷を負ったということ。
屋敷は炎上し、それと共に兄は死んだということ。
ナミネが気絶してからの詳細を教えてくれたのはスピードワゴンという男だった。ジョナサンの友人だと名乗った彼は、はじめこそディオの妹であるナミネに良い顔をしなかったが、話を進めるうちに、義父と兄の死を心から悲しんで泣くナミネの身の上に同情してくれたようだ。スピードワゴンは、自身も怪我を負っているのに、何度も見舞いに訪れてくれた。
二度も親を失い、唯一の肉親は犯罪を起こした末に壮絶な死を遂げ、青春を過ごした家すらも焼失した。何もかも失い、手元には何もない。この身ひとつしか残っていない。命が助かっただけでも幸いだと周りの皆は言うけれど、こんなことなら、屋敷と一緒に燃えてしまえばよかった。
ナミネが一週間ほど寝込んでいるうちに、ジョナサンの意識も戻り、それから数日後には二人揃って退院できた。ジョナサンはナミネの為に、街から少し離れた静かなところにある空き家を手配して貸し与えた。
「必要な時以外はあまり外へ出ないで、できる限り家にいるんだよ」
「うん。わかったわ」
「戸締りにも気をつけて」
「ジョナサンは心配性ね。大丈夫よ」
まだ腕の骨折が癒えず、布で吊ったままのジョナサンは、無事な方の手でナミネの頭を撫でてから玄関を出て行った。
彼は病院とナミネの家とを行き来する生活を送っている。ディオが死んだことでショックを受けているナミネに色々と気を配り、優しく話しかけてくれるのだ。自分だって、父が殺され、生家が焼け落ち、大怪我を負って、心もボロボロに傷ついている筈なのに。父を殺した男の妹に、以前と変わらぬ態度で、あくまでも兄として接するジョナサンの慈悲深さと寛大さに、ナミネはしばしば涙した。
義兄に言いつけられたとおりしっかりと戸締りを確認し、簡単な食事を終えた後、寝室のベッドに潜り込む。ほとんどの時間を寝台の上で過ごしている。眠ってしまえば、余計なことを考えずに済むからだ。
眠ろうとして眼を閉じて微睡んでいた時、玄関の方で微かな物音がしたのを、ナミネは確かに耳にした。扉は確かに施錠されている。それなのに、閂が引かれる音、蝶番が軋む音までもが聞こえる。
この家を訪れるのはジョナサンぐらいしかいないが、彼であるわけが無い。まさか物取りだろうか、と不安で胸がいっぱいになる。この家には今はナミネ一人しかいないのだ。病み上がりの弱った女一人となれば、何をされるか分かったものではない。
護身用に、と渡された銃を机の中から引っ張り出してくる。震える手でそれを握りしめながら、廊下へ続くドアを少し開けて様子を伺う。明らかに、リビングに人の気配がする。ナミネはごくりと唾を飲んでから、意を決して扉を開け放った。
「誰なの!?」
銃を構えながら闇の中に足を踏み出す。すべての照明を落としているので、窓から差し込む月の光しか明かりが無い。ナミネは引き金に指をかけながら目を凝らし、暗がりの中から姿を現した二人組を睨め付けた。
一人は見覚えがある。兄に毒薬を売ったという東洋人の男だ。だが、なにか様子がおかしい。目が虚ろで、焦点が定まっていない。
もう一人は、東洋人が押す車椅子に腰掛け、丈の長いローブのフードを目深に被っている。暗闇に紛れてよく見えなかった顔が、窓際まで寄ったことで月光の下に晒された。
「……どうして……?」
……信じられない。
ナミネは、震えた声で呟いた。
フードの奥で赤い瞳が瞬く。微かに覗く、焦げた金髪。焼け爛れた皮膚と、肉や骨のむき出しになった指先。
そんな成りをしていながらも、目の前の男は嬉しそうに微笑んで見せる。その目に少し孕んだ優しさも、笑った時の口角も、昔から変わらない。そのすべてが、もうどんなに望んでも手に入らないのだと思っていたのに。
「兄……さん」
「約束通り……迎えに来たぞ。さあ……ナミネ」
擦れた声で兄は言うと、緩慢な仕草で手を持ち上げた。手のひらを上にして、こちらに差し出してみせる。
手を、取れと。兄はそう言いたいらしい。
……手を重ねれば。
ディオに身を委ねてしまったら、もう、取り返しのつかないことになると……もう二度と元の生活には戻れないのだと、直感が告げる。
ロンドンで貧困に喘いでいた幼少期とも、煌びやかで豊かな生活をしてきた青春時代とも違う。
もっと違う、今のナミネには想像することすらできない、仄暗く先の見えない長い長い道が、ぽっかりと口を開けて待っているのだ。
兄の手を握るだけ。たったそれだけで、その暗闇に飲み込まれてしまう。
車椅子のディオを見下ろしながら、ナミネは眩暈がする思いだった。
それなのに、足は自然と前に進む。ふらふらと、自分の意識とは関係ないかのように、手が伸びる。
彼の手は、肉の剥がれ落ちた指先は熱を孕んで膿んでいるのに、手のひらはぞっとするほどに冷たい。
端の吊り上がった唇の間から、すらりと長く伸びた犬歯が覗いた。
「──良い子だ」
意識が、急速に暗転する。